早くも1903年、そして、その後何年もアブドル・バハはバハイに、日本に旅行してバハオラの伝言を広めるように奨励され、折にふれ、彼自身日本へ旅行したいとも述べられました。
1908 年、アブドル・バハはアメリカ人の信者ハワード・マクナット氏に宛て次のように書かれました。「神を信ずる者等が東洋へ旅行することは非常に重要であり、 又、それは両地域間に重大な関係をもたらす要因になるであろう……。もし神の意に添えば汝は日本に神の王国の基礎を築くであろう。」
1910 年、彼は最初に日本を訪れた二人のバハイに次のように言われました。「かの国に確立される聖なる大業から喜ばしい結果が現われるであろう。日本での布教に 関するあなた方の手紙を、ニューヨークのマクナット氏に送っておいた。そうすれば彼は日本へ行って大業のために奉仕し、布教するようにという言葉をアメリ カのバハイの間に広めることができよう。布教者が旅行して神の愛によって人々に生命力を与えることは非常に良いことである。アメリカのバハイは布教者とし て東洋の国々に行くべきである。」
長 い旅路についた最初のバハイは、1909年にハワード・ストウルベン氏とC・M・リーミイ氏、1911年にオレリヤ・ベッレン夫人、1914年にドレイ ファス・バー二一夫妻でした。彼らは短期間滞在した後、世界一周の旅を続けたのでした。ジョージ・オーガー博士とアグネス・アレキサンダー嬢は二人共 1914年に到着一アレキサンダー嬢はオーガー博士に次いで間もなく到着しました。彼らは長期聞日本に住む目的で日本への船旅についたのでありました。こ れらの信徒達はすべてアブドル・バハの要望に答えて旅行したのです。彼は又、当時まだ大業も始まりの時期に日本の他、中国、インド、ペルシャ、その他のア ジァ諸国へも旅行するように勧められました。
合 衆国とカナダのバハイに宛てた「聖なる計画の書簡」の中には「日本」という言葉が六回、「日本語」という言葉が一回述べられています。これらの書簡の中で アブドル・バハは又もや旅行を勧められています。「もし男女からなる一団が一緒に中国及び日本……に旅行することができればなんと有益な事であろうか。」
1919 年にアブドル・バハはロイ・ウィルヘルム氏に次のように書かれました。「日本人を非常に重要視せよ。マギー夫人は頻繁に彼らと交流すべきである。」そして 又、同じに、同じ信者に次のようにも書かれました。「日本人の那須氏に私からのあいさつと同時に次のように伝えなさい。「自然の世界は暗黒であるが、天の 太陽はその光りで、この世界にはびこる暗黒を消滅させる。同様に、心と魂の世界は暗黒であり、真理の太陽の光の他にはそれを照らすものはない。それ故に、 わが望みは汝が日本で神の教えの輝きの源となり、死人に生命を与えることである。日本の人々は聡明であるが覚醒させてくれる指導者を必要としている。汝が 彼らを目覚めさせ、生命を与える原因とならんことを望む。」と」
1920年、アブドル・バハはウィリアム・ランドル氏に次のように書かれました。「アメリカと日本の間の関係と愛を推進するために築かれた交流は、神の御意に添えば確認され、援助されるであろう。この交流は重要であり、それは疑いもなく大きな結果をもたらすであろう。」
☆ ☆ ☆「次 の言葉は、私の耳に今だに鳴りひびいている彼の言葉そのものであります。『日本は僚原の火のように燃えたっであろう。』」この本の表題は、日本の精神的未 来についてのアブドル・バハの予言よりとられたものであります。それは1922年、1月26日付でバハイ信教の守護者、ショーギ・エフェンディより日本の バハイに宛てられた最初の手紙の中に引用されたものです。
☆ ☆ ☆こ れは日本におけるバハイ信教の歴史ではありません。その非常に興味深い物語は、きっとまた、別の機会に語られることでしょう。しかし、ここでの話の筋を通 すためと、読者がある程度事情に通じていれば、手紙の受け取人の人生と行動に反映されたアブドル・バハとショーギ・エフェンディーの言葉の剣造力をより良 く見とることができるのではないかと思い、勝手ながら敢えて数行を付け加えさせていただきました。
バーバラ・シムス(第1回北東アジァバハイ年次大会。北東アジァ全国精神行政政会。アメリカ合衆国、オーストラリア、ペルシャ、日本の各地方精神行政会などへ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・82
Ⅳ.個人宛の手紙・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・104