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International Baha'i Community : Who is Writing the Future
誰が未来を書いているのか?
20世紀についての考察

1992年5月28日に、ブラジルの国民議会はバハオラ昇天の百周年を記念するために特別なセッションで会合しましたが、バハオラの影響力は世界の社会的・知的風景において、ますますよく知られるようになりました。バハオラの、和合のメッセージは明らかに、ブラジルの議員たちの強い同感を得ました。議会の間、議会のすべての党の代理を務めているスピーカーたちが、バハオラの書と未来に関する概念に敬意を示しました。ある代理者は、こう述べています--それは、「ただ一人の人間のペンにより書かれた宗教書の中でもっとも巨大なる業績」である、と。また、別の代理者は、地球の未来に関するバハオラの概念については、「物質的な国境を越えて...国籍・人種・限界・信条などの些細な相違点を抜きにして、人類全体に手を差し伸べるものである」(1)、と述べています。

上記の賛辞は、バハオラの出生の地であるイランでは、彼の仕事は、イラン を支配するイスラム教聖職者たちにより、激しく非難され続けるという事実ゆえに、なおさら顕著でありました。イランのイスラム教聖職者の前任者たちは、19世紀中盤の間、バハオラの追放と投獄処分、そして人間の生活と社会変革に関するバハオラの理想を共有した何千もの人たちの虐殺に関して、責任があります。ブラジリアでの会議進行中にも、残りの世界至る所で高い称賛を勝ち得ているその信条を否定し、イランに住む30万人のバハイ教徒らを迫害し、窮乏に落とし込み、また多くの場合、投獄し、処刑していたのです。

これと似たような反撃の態度は、過ぎ行く世紀の様々な全体主義体制の態度を特徴づけてもいます。
そのように常規から極端に外れた反応を喚起した思想の性質とは何なのでしょう?
I

バハオラのメッセージの主体は、基本的に精神的な真理の説明と、その真理の操作を統括する法則の解説です。それは、人間を精神的な生き物、「理性的魂」として見るだけではなく、我々が文明と呼ぶ事業全体がそれ自体精神的なプロセスであると述べています--そのプロセスにおいて、人間の知性と心は、そのそれ固有の道徳的・知的能力を表現するために徐々に複雑活能率的な手段を創造してきたのです。

唯物論の支配的教義を拒絶し、バハオラ は歴史のプロセスに関して反対の解釈を断言しています。人類とは、意識的進化の矢じりであり、個人の生命と同じように幼少期、児童期、青春期といった段階を通過します。この旅路は、統一人類として、長い間待ち望まれた成熟の岐路に導いているのです。このプロセスで未熟な段階を特徴付けてきた戦争。搾取、偏見と言ったものは、絶望の原因となるべきではなく、むしろ集合的成熟の責任を背負うための刺激となるべきです。

バハオラは、自身と同時代の政治的・宗教的指導者たちに書簡を書き、その世代の人たちには理解できない計り知れない力を有する新たな能力が地上の諸民族の間に目覚めつつある、と述べています--その能力とは、地球の物質的生活をやがて変革させるであろうものでした。バハオラは、この来るべき発展を道徳的・社会的発展のために使うことが不可欠である、と述べています。もし国家主義や派閥的対立が、これを阻んでしまったら、物質的進歩は利益をもたらすだけではなく、想像を絶する悪をも引き起こすであろう、ということでした。バハオラの警告のいくつかは、我々自身の時代においても、厳格なるこだまを呼び起こします。彼は、こう続けて述べています--「奇妙で、驚くべきものが地球内に存在する。。。これらのものは、地球の大気全体を変え、その汚染は致命的となるであろう。。。」(2)。

II

全人類に直面している中心的な精神的課題とは、その国籍、宗教、民族的起源にかかわらず、人類の一体性を反映できるグローバル社会の土台を敷くことである、とバハオラは述べています。地球の住民の統合とは、遠隔な理想郷的なビジョンでもなければ、究極的には選択問題でもないのです。それは社会的進化のプロセスにおける次の、逃避不可能な段階を成しているのです--その段階へ向けて、過去と現在のすべての経験が我々を駆り立てているのです。この問題が認識され、対処されるまでは、この地球を苦しめている病は、解決が見い出されないでしょう。なぜなら、この時代にわれわれが直面している本質的な課題のすべては、グローバルかつ普遍的であり、特定あるいは地域的なものではないからです。

人類の成熟に関するバハオラの書の多くは、統合の変革的パワーを捕らえるために、光を比喩として用いています。それらの書には、このように書かれています--「統合の光は非常に強力であるため、地球全体を照らすことができるほどである」(3)。この言葉は、20世紀の終わりにおいて広まっている視点とは非常に異なる視点に、歴史を置くことになります。それは、人類の意識進化における新しい段階へ向けて、その意識を解放している力の作動を、この時代の苦しみや崩壊の中に見出すよう、われわれを促しているのです。それは、過去100年の間に起きた出来事について、そしてそれらの出来事を経験した多様なる民族・人種・国家・共同体に、それらの出来事がどのような影響を与えたか、再調査するように呼びかけているのです。

もしバハオラが次のように断言しているように--つまり、「人類の安寧、平和、保全は統合が固く確立されるまでは、達成不可能である」(4)--のならば、バハイ教徒らがなぜ、20世紀を、その多くの惨事にもかかわらず「光の世紀」(5)として見なしているかが理解できます。なぜなら、この百年の間に、地上の住民たちが集合的未来の計画、お互いを見る目と言うものが変革してきたのを目撃してきているからです。両方とも、その特徴は統一のプロセスでした。既存の機構が統括できない大変動により、今世紀初めにおいては考えられなかったような地球的組織の新しいシステムを施行するよう、世界の指導者たちを駆り立てていったのです。これが起きるのと同時に、無数の世紀もの間の対立を通して、諸民族と国家を分裂させていたた、そしてそれから何時代も続くであろうと思われていた習慣や態度、こういったものが急激に侵食され始めたのです。

今世紀の中間において、これらの2つの発展は、大いなる前進を示しました--その前進の歴史的な意義については、未来の世代のみがただしく評価できるであろうというものです。第二次世界大戦の恐るべき余波において、未来的ビジョンを持った指導者たちは、国際連合を通して、世界秩序の基盤を強化し始めることができると、遂に見い出したのです。長い間、進歩的思想家たによって夢見られてきた、国際的議会とその関連機構という新しいシステムが、国際同盟では悲劇的に否定されていた決定的な権力を、今や付与されたのです。世紀が経過するにつれ、このシステムの、国際平和維持の初歩的な筋肉は、徐々に鍛えられ、何を達成できうるかを効果的に実証してきたのです。これと同時に、世界中で民主的な統治機構が着実に拡大してきました。もし実務的な効果がまだ失望を余儀なくされているとしても、これは決して、人類業務の組織化において起きた歴史的で撤回できない方向転換を弱めることにはなりません。

世界秩序の原因と同じように世界平和の権利も同じ状況にあります。戦争の間に人間の強情の被害者襲い掛かった恐ろしい苦しみの暴露により、世界中でショックを、そして恥辱と言う深い感情でのみ表現できるものを引き起こしたのです。この外傷から、新しい人道的な活動が出現し、それは、国際連合の人権委員会とその関連機構として正式に発足しました。これは、バハオラ自身がこのテーマにおいて書簡をあてていた19世紀の指導者たちには思いもよらない出来事だったのです。このように権限を与えられ、非政府組織は数が増し、そして人権宣言を国際的標準の源泉とし、それに応じて実施されることを確実に使用とし始めたのです。

経済的生活に関しても、平行したプロセスが起きました。今世紀の前半、世界恐慌の結果として、多くの政府が、そのような破壊の繰り返しから社会を守ろうとする福祉プログラム、金融制御機構、積立金、貿易規則などのシステムを採用しました。第二次世界大戦後には、その活動分野が地球規模である機構が設立されました--国際通貨基金(IMF) 、世界銀行 、関税貿易一般協定(GATT)、その他地球の物質的繁栄を合理化し発展させるための機構のネットワークなどです。世紀の終わりにおいて、その意図が何であれ、あるいは現在の世代の手段がいかに粗野であれ、地上の富がまったく新しいニーズに応じて再組織化できることを、多くの人々が示してきたのです。

これらの出来事の効果は、大衆の教育によりさらに加速され、拡大されています。国家や地方政府がこの分野においてさらに増加した資源を割り当てる意欲、そして職業的に資格のある人々を動員し訓練する社会の能力に加えて、20世紀における二つの進歩に特に影響力があります。そのひとつは、教育的ニーズに焦点を置き、世界銀行、行政機関、主要な財団、国際連合 のいくつかの機関などにより大規模に資金調達をされている一連の開発計画です。もうひとつは、人類全体がその学習全体から益をこうむるのを可能にした情報工学の爆発的な発展です。

この地球規模の構造的再編成のプロセスは、意識の深遠なる再方向付けにより活気づけられ強化されました。地球の住民全員が、突然、根深く植え付けられた、対立を引き起こす態度の代金と直面し、かつては良いとされていた習慣や態度を世界的な非難のまなざしの中でそうせざるを得なくなったのです。その効果は、人々がお互いを見つめる目を革命することを大いに刺激することであったのです。

例えば、歴史を通じて、女性は本質的に男性より劣っているということが言われてきましたし、宗教の教えもまた同じように述べています。しかし文字通り一晩にして、この普及した考え方は、至る所で後進的な考えとして後退していったのです。女性はあらゆる面において男性と平等であるというバハオラの断言を実行することがいかに苦痛であり長い道のりであるとしても、反対意見の知的・道徳的支持と言うものは着実に崩壊してきています。

過去一千年の間の人類の自身に対するもう一つの固定観念は、民族的差異で、これは最近、人種差別の空想へと固まってきています。歴史的見地における息をのむような速さで、20世紀は人類の一体性が、国際秩序の指針的原則であることを確立するのを見ています。今日、世界の多くの地域で破壊を引き起こし続ける民族闘争は、多様な民族間の自然な特徴としてではなく、効率的な国際的制御の下にもたらされるべき、意図的な逸脱行為として見られるべきなのです。

人類の長い児童時代を通じて、再び組織化された宗教の同意を得て、貧困は社会秩序の永続的で逃避できない特徴でると信じられてきました。今、しかしながら、この固定観念、つまり、これまで存在してきたすべての経済体制の優先事項を形成してきた仮定条件は、広く拒絶されるようになりました。少なくとも理論的には、政府とは本質的に、社会の全メンバーの安寧を保障するための信託者であると見なされるようになりました。

特に重要な出来事は、宗教的偏見が緩んできたことで、これは、人間の行動の動機の根源と深い関係があるからです。19世紀が終わる頃に「宗教会議」として現れていた、宗教間の対話や協力というプロセスは、聖職者の権威というかつては難攻不落の壁を弱めることにおいて、非宗教主義の効果を強化しました。過去の百年が目撃した宗教的考えの転換に直面し、最近の原理主義者たちの爆発的な反応でさえ、振り返ってみると、避けらることのできない派閥的制御の解消に対する必死の後衛行動としか見られなくないうるのです。Baha 'u 'llahの言葉を借りれば、「世界中の人々は、いかなる人種的・宗教的背景であれ、同一の「源泉」から霊感を得、唯一の神の臣民で得あることには疑いの余地がない」(6)のです。

また、この重大な過去数十年の間には、人間の知性は、物理的宇宙の理解も根本的に変わっていったのでした。今世紀の前半には、相対性理論と量子力学と言う二つの科学的理論--両方とも光の性質と動きに深い関係のあるものですが--が、物理的分野に革命を起こし、科学的発展の進路を大きく変えました。古典物理学が説明できるの限られた範囲の現象のみだということが判明したのです。宇宙を構成する超微小(ミクロ)の世界と巨大な宇宙システムの両方に関する研究の扉が新たに開き、その影響力は物理学を超え、何世紀もの間、科学的思想を独占してきた世界観の土台自体を大きくを揺り動かしてしまったのです。観察者と観察されるもの、知性と物質と言った分離を前提とした、時計のように動くだけの機械的な宇宙のイメージは永久に消え失せてしまったのです。このように可能とされた深遠な研究を背景にして、理論的な科学は今、宇宙の性質と作動には目的と知性が本質的に備わっているかもしれないという可能性を探求し始めているのです。

このような概念的革命の中、人類は物理学・化学・生物学そして新分野である生態学などが相互作用し、生命をより豊かにするための息をのむような可能性の道をきりひらいていくのを目撃しているのです。農業や医学、として新しいエネルギー源の開発によりもたらされた分野などの有益性は明らかになりました。同時に、材料科学という新分野は、今世紀が始まった頃には未知であったプラスチック、光ファイバー、炭素繊維などの専門的な資源を豊富に供給し始めたのです。

このように科学と技術の発展はお互い補足しあうものです。砂というものは、見るからには最もみすぼらしく価値のない物質と思われるかもしれませんが、これは、シリコン・ウエハースや光学的に純粋なガラスに変形され、世界的なコミュニケーション・ネットワークを可能にしたのです。これは、一段と洗練されてきている人工衛星システムとともに、どこに住もうと、何らの区別も無しに全人類の蓄積された知識へのアクセスを供給し始めたのです。これから数十年の間に、電話・テレビ・コンピュータ技術の統合により、ひとつのコミュニケーション情報ネットワークというものが生まれることでしょう--それは、比較的安価なコストのため、大規模なスケールで利用が可能になるでしょう。現行の金融システムの混乱から考えると--それは多くの人にとっては、国粋主義的誇りの究極的砦なのですが--これが、主に電子回路により操作される単一の貨幣システムにより取って替えられたら、それが与えるであろう心理的・社会的影響については、想像を絶するものがあるでしょう。

まことに、20世紀革命の統合的な効力は、科学的・技術的生活で起きた変化において最も急激に明らかになったのです。最も明白なレベルにおいて、人類は、着実に成熟している意識により呼び起こされた幻想的目標を実現させるのに必要な手段を、今や付与されているのです。より深い見地から見ると、この付与された力とは、人種・文化・国籍に関係なく、地上すべての人々にとって入手可能なのです。バハオラは、預言的な見解をこう示しています--「新しい生命が、この時代において地上すべての民族の間でかきたてられている。しかし誰も、その原因を発見することも、その動機について認知することもできていない」(7)。今日、この言葉が書かれてから1世紀以上後になって、その間に起きた出来事の意味がようやく、至る所にいる思慮深い人々の間で明らかになりつつあるのです。

III

今終わろうとしている歴史的時期によりもたらされた変革について正当に評価することは、業績を救いの中へ投げ込む付随する暗闇を否定することではありません。何百万という無力な人々の故意による絶滅、人口全体を破壊することのできる新しい武器の発明と使用、国全体の精神的・知的生活を窒息させたイデオロギーぼ台頭、治癒のために何世紀も必要とされるであろうほどの大規模なスケールでの地球環境の破壊、さらに大きな破壊として子供たちに、暴力・下品・利己主義こそ個人的自由の勝利と信じこませたこと--これらは、歴史的に類を見ない邪悪の羅列の中でも明らかなものです。その教訓は、われわれの後に来る、懲らしめられるであろう世代の教育のために、この時代の後に残されるのでしょう。

しかし、暗闇は、何かの形態を授けられた現象ではないし、ましてや、自律的存在でもないのです。暗闇は、光を消すこともないし、それを弱めることもありません。むしろ、光がまだ達していない地点、あるいは十分に照らされていない所を明るくするのです。20世紀の文明は、より成熟した公平な歴史家たちによって、そのようにして評価されることでしょう。これらの重大な年を通して、統制力を失って荒れ狂い、また社会の生存そのものをも脅かしたかに見えた動物的本能--その獰猛性は、実は、人間の意識の創造的潜在能力が着実に展開することを妨げることはできなかったのです。それどころか、この世紀が過ぎてゆくにつれ、、より多くの人々が、しばらく前に自分たちを捕らえていた忠誠心がいかに空虚なものであり、、同じく恐怖がいかに些細なものであったかと言うことに気づき始めているのです。

バハオラは、こう主張しています--「この日こそは比類なき日である。なぜなら、この日は過去の時代や世紀にとってあたかも眼のようなものであり、暗黒の時代にとって光のようなものであるから」(8)。この見地から見ると、今終わろうとしている並ならぬ百年が成し遂げた進歩を遅らせたりおぼろげにした暗闇、これが問題なのではないのです。むしろ、問題なのは、わたしたちが、自分らを一つの人類となす精神的な性質と言うものを心から受け入れ、これほどの苦しみを通して学んだことにおいて未来を共に計画して行く勇気を持つまで、それまでに、あとどれだけの苦しみと破壊を経験しなければならないのか、ということ、これが問題なのです。

IV

バハオラの書の中で述べられている文明のたどるであろう未来の進路に関する概念は、今日世界の人々が変わることのない、常識と考えている概念に挑戦を与えるものであります。光の世紀の間に遂げられた前進は、新しい世界の扉を開けたのです。もし社会的・知的進化が、実際、生存に本来備わっている道徳的知性に反応しているのであれば、今日の意志決定方法を決めている理論の多くが致命的な傷を負うことになります。もし人間の意識は本質的な精神的なものであるならば--それは大多数のごく普通の人々が常に、直感的に感じていることではありますが--その意識の発展のニーズは、人間の本質は精神的なものではないと独断的に主張する解釈を通しては理解することもできないし、満たすこともできないのです。

現代の文明の局面において、個人主義を崇拝する傾向ほど、未来に関するバハオラの概念により挑戦を受けているものはないでしょう--その傾向は、世界中のほとんどの地域に広まっています。政治的イデオロギーやアカデミック(学問的)なエリート主義や消費者経済などの文化的勢力により養われ、「幸福の追求」は、個人的所有権に攻撃的、そしてほとんど無限とも言える感覚を与えてしまったのです。道徳的な結果は、個人にとっても社会にとっても腐食的なもので、世紀末の破壊的な原因として誰もが知っている病気や薬物中毒などの意味では破壊的でもあります。それほど根本的で浸透している過ちから人類を解放することは、善悪に関する20世紀に深く固定した仮定条件に疑問を投げかけることになるのです。

このような、まだ手をつけていない仮定条件には、どのような例があるでしょうか?そのうち最も明白であるのが、統合とは、多くの政治的衝突がある程度解決し、物質的ニーズがある程度満たされ、不正がある程度矯正されてから初めて取り組みべき、ほとんど達成不可能な、遠い存在にある理想であると言う信条です。まったく正反対である、とバハオラは主張しています。社会を苦しめている主な病気、また社会を障害者にする病気を産み出しているものは、人類の不和であると、バハオラは述べています。それは、協力する能力とは異なるものであり、今日までの進歩は、様様な時代や社会においてどれだけ行動が統合されていたかに依存してきたのです。対立するのは、学んだ習慣や態度の複合体であるというよりも、人間の本質的な特徴であるという考えへの固執は、来るべき新世紀に、人類の過去に最も悲劇的な傷害を与えてきた過ちを課することになるのです。「人類を、その始まりにおいては完全で健全であったけれども、様様な原因により重大な病気や障害により苦しめられてしまった身体として見なしなさい」(9)と、バハオラは選出された指導者たちに助言しています。

統合の問題と密接に関連している二番目の道徳的挑戦は、この世紀がますます緊急性を増して提示してきたものです。神の眼において、正義は、[すべてのものの中で最愛なるもの」(10)であると、バハオラは述べています。 正義は、他人の眼や耳でなく、自分のそれを通して真実を見ることを可能にすると同時に、思考と行動の統一を確実にできる唯一の権限を、集合的意志決定に授けるのです。20世紀の悲惨な経験から出現した国際的秩序のシステムがいかに満足を与えようとも、その永続的な影響は、それに暗示されている道徳的原則を受け入れることに依存するのです。もし人類の身体が一つであり分割不可能であるならば、その統治機構により行使される権限も本質的には信託の地位を表すのです。つまり、個人は、全体の信託としてこの世に生まれてくるのであり、人間の生存のこの特徴こそ、国際連合憲章とその関連文書が明確に表現する社会的・経済的・文化的権利の真の基盤を形成するものなのです。正義と統合は、その効力において相互的なのです。バハオラは、こう書いています--「正義の目的とは、人々の間に統合が現れることにある。神の英知の大海は、この崇高なる言葉の中でうねりを上げている。一方、世界中の諸々の書はその内奥の意味を含有することができない」(11)。

社会が、いかにためらい、恐れながらも、これらの道徳的な原則に責任を持つようになるにつれ、社会が個人に対して果たすようになる最も意義ある役割は、奉仕と言う行為となるでしょう。人間生活の逆説のひとつは、自我の発達は自分より大きな事柄に身をゆだねる行為により起きるということです。それは、自我と言うものが、ほんの一時的でさえも忘れられるという状態であるのです。社会秩序の形成に参与する機会を、あらゆる人々に開放するという時代において、他の人々への奉仕と言う理想は、まったく新しい意味合いを帯びてくるのです。獲得や自己主張のような目標を人生の目的の位置に掲げることは、主に人間の動物側面を促進することになります。同様に、個人的救済という単純なメッセージも、これらの世代の人々の渇望を満たすことはできません--人々は、真の充実感は来世だけでなく今世に関する事柄でもあるということを深い確信を持って知るようになったからです。「汝らがいきている時代の必要とすることに熱心に関心を持ち、その時代の要求することに思考を集中させるがよい」(12)、とバハオラは助言しています。

そのような見地は、人間業務の処理に深い意味を有しています。たとえば、国家という存在の貢献するものが何であれ、国家が人類の運命を決定する主要な存在であることが続けば、それだけ世界平和の実現は遅れ、地上の住民が受ける苦難もより大きくなる、ということは明らかです。経済生活面においては、地球化によりもたらされた祝福がいかに大きなものであれ、同時に、この地球化のプロセスが比類なき独裁的権力の集中を生じたことも事実です。そのような権力は、何百万と言う数え切れないほどの人々の貧困と絶望的生活状態を生じないようにするためには、国際的な民主的統制のもとにもたらされる必要があります。同様に、情報とコミュニケーションにおける歴史的な発展は、人類が共通の基盤を有すると言う感覚を深めたり、社会発展を促進するのに強力なとなりますが、同時に、同じ勢力を持ってそのようなプロセス自体の奉仕に不可欠の衝動の注意力をそらしたり、粗野にしたりすることもできるのです。

V

バハオラが言わんとしていることは、神と人類との新しい関係--人類の成熟の始まりと調和した関係なのです。無論、宇宙を創造し、維持している究極の「実在」は、人間の知性には及びのつかない存在です。人類の意識と神との関係は、現在まで確立されてきた段階までは、世界の偉大なる宗教の創始者たちによる影響の結果です--たとえば、モーセ、ゾロアスター、仏陀、キリスト、ムハムマドなどがあげられますが、それ以前の創始者たちの名前はほとんどが記録に残っていません。このような神の聖なる刺激により、地上の人々は精神的・知的・道徳的能力を徐々に発達させ、またそれらを組み合わせて、人間の性格を文明化させてきたのです。この一千年の累積的プロセスは、今や進化的プロセスのあらゆる転換期に共通する段階--以前には実現できなかった可能性が突然現れると言う段階に到達したのです。バハオラもこう述べています--「この日は、神の最も優れたご好意が人々の上に降り注がれた日、神のもっと強大なる恵みが全創造物に注ぎ込まれた日である」(13)。

バハオラの眼を通してみると、部族・民族・国家の歴史は効率的にその終結に達したと言うわけです。われわれが今、目撃していることは、人類の歴史、自らの一体性を意識した人類の歴史の初まりであるのです。文明のこの転換期において、バハオラの書は、文明の性質とプロセスを再定義し、その優先事項の順序を並べ替えるのです。バハオラの書は、われわれの精神的な認識と責任を呼び起こすことを目的としています。

しかしバハオラの書には、ビジョンとして描かれた事柄が容易に起きるであろうという錯覚を起こさせるものは何もありません。いいえ、まったく逆です。20世紀の出来事がすでに実証しているように、何千年もの間根を張ってきた習慣や態度のパターンはおのずから捨て去られることもなければ、単純に教育や法律的行為への反応として捨て去られることもなかったのです。個人の生活にせよ、社会それにせよ、、大きな変化というものは、他に克服する方法のないような堪えられないほどの困難や激しい苦難への反応として起きることが多いのです。バハオラは、地上の多様な諸民族をひとつに溶接してしまうには、そのように大いなる試練が必要とされるであろう、と言う警告を出してもいるのです。

実在性に関する精神的な概念と物質主義的な概念は、互いに相反するもので、反対の方向に導いてしまうのです。新しい世紀へ向けて、後者の取った進路はすでに、人類の安寧はおろか、合理性の妄想でさえも耐えることのできない点まで、不運なる人類を運び去っていってしまったのです。過ぎゆく日ごとに、大勢の人々がこの認識に目覚めつつあるのです。

広く普及している考えとは逆に、人間は、人間業務の特権を与えられた調停者らが自由に願望を記入することができると言う空白の帳面ではありません。 人間の精神と言うバネは、自らが跳ね上がりたいと思うところに、思うとおりに跳ね上がるものなのです。そのバネは、いつまでも現代社会の砕片によって鎮圧されることはないのです。新世紀の初期には、表現力を長い間阻んできた、蓄積されてきた常道、虚偽、中毒と言ったものよりもずっと強力なるエネルギーと熱望が放散されるのを目撃するであろうことは、もはや、予言者の眼でなくとも理解できることなのです。

混乱がいかに大いなるものであろうと、人類が突入しようとしている時期は、地上のあらゆる人々、機構、共同体に、地球の未来について書き記すと言う先例のない作業への参与への機会を提示することとなりましょう。バハオラは、自信を持って約束をしています--「間もなく、今日の秩序は巻き上げられ、代わりに新しい秩序が繰り広げられるであろう」(14)。

注釈

1. Remarks by Deputy Luis Gushiken and Deputy Rita Camata。 "Sessao Solene da Camara Federal em Homenagem ao Centenario da Ascensao de Bahá'u'lláh”、 Brasilia、 28 May 1992。

2. Bahá'u'lláh、 Tablets of Baha’u’llah Revealed after the Kita'b-i-Aqdas (Wilmette: Baha’i Publishing Trust、 1997)、 p。 69。

3. Baha’u’llah、 Epistle to the Son of the Wolf (Wilmette: Bahá'í Publishing Trust、 1988)、 p。 14。

4. Bahá'u'lláh、 Gleaning from the Writings of Baha’u’llah、 section CXXXI。

5. Abdu'l-Bahá、 The Promulgation of Universal Peace: Talks Delivered by Abdu’l-Baha during His Visit to the United States and Canada in 1912、 rev。 ed。 (Wilmette: Bahá'í Publishing Trust、 1982)、 pp。 74、 126。

6. Bahá'u'lláh、 Gleaning from the Writings of Baha’u’llah、 section CXI。

7. Bahá'u'lláh、 Gleaning from the Writings of Baha’u’llah、 section XCVI。

8. Baha’u’llah、 quoted in Shoghi Effendi。 The Advent of Divine Justice (Wilmette: Bahá'í Publishing Trust。 1990)、 p。 79。

9. Bahá'u'lláh、 Gleanings from the Writings of Baha’u’llah、 section CXX。

10. Bahá'u'lláh、 The Hidden Words、 no 2 from the Arabic。

11. Bahá'u'lláh、 Tablets of Baha’u’llah Revealed after the Kitáb-I-Aqdas (Wilmette: Bahá'í Publishing Trust、 1997)、 p。 67。

12. Bahá'u'lláh、 Gleaning from the Writings of Baha’u’llah、 section CVI。

13. Bahá'u'lláh、 Gleaning from the Writings of Bahá'u'lláh、 section IV。

14. Bahá'u'lláh、 Gleanings of the Writings of Bahá'u'lláh、 section IV。

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