1. 「真理の太陽」とは神の言葉である。理解力と発言力とを授けられた者らの教育は、それに依存する。それは真の精神であり、天上の水である。その助けと恵み深き摂理を通して、万物は創造され、また、生気を与えられるのである。それが鏡に映し出される時、それは鏡の色に左右される。たとえば、それが賢者の心という鏡に映し出される時、それは英知を現す。同様に、職人の心という鏡に映し出される時、それは独特で新しい工芸を生み出す。また、真理を理解する者の心に映し出される時、それは真の知識というすばらしき御しるしを表し、神のご発言の真理を明かすのである。(ペルシャ語の英訳より)
2. われは、汝らが音楽や歌を聞くことを合法とした。しかし、それらを聞くことより礼節と威厳の限界を越えぬよう注意せよ。わが最大名から生まれた喜びをもって汝らの喜びとせよ。それは心に歓喜をもたらし、神に近づいた者らの理性を陶酔させる御名である。まことに、われは音楽を汝らの魂の梯子とし、魂を天上の領城に引き上げる手段とした。それゆえ、それを自我と情欲の翼としてはならない。まこと、われは、汝らが愚かな者の中に数えられるのを見たくはない。(バハオラ、「アグダスの書」、51段落)
3. 夜明けに思いを神に向け、神を思い起すことに専念し、許しを請い、マシュレゴウル・アズカーに歩みを向け、そこへ入り沈黙のうちに座し、主権者、御力の御方、すべてに賛美される御方なる神の聖句に耳を傾ける者に祝福あれ。言挙げよ。マシュレゴウル・アズカーは、わが賛美のために町や村に建てられたすべての建物である。この名称は、栄光の玉座の面前で定められたものである。汝ら、理解する者であれば。(バハオラ、「アグダスの書」、115段落)
4. 神の御口をもれる一つ一つの言葉は、すべての人体に新たな生命を授けるに十分な威力を有する。おお、汝等、この真理を理解する者ならば。この世に見られる、驚くべき事業のすべては、彼の最も崇高にして、至上なる意志の働きと、その確固不変たる素晴らしい目的とを通じて現わされたものである。御自身の属性の一つを人類に告げるために御口から「創作者」という一言が啓示されることにより、世々代々を通じて人間の手が創作し得る様々な技巧を生み出すに十分な威力が放出されるのである。まことに、これは確かな真理である。この輝ける言葉が語られるやいなや、この言葉に備わった生気みなぎるエネルギーはすべての創造物の中で躍動を始める。そして、それによりあらゆる技巧が編み出され、完成されるための方法や手段が誕生するのである。今日、汝等が目のあたりにしている多くの驚くべき成果はすべて、この名称の啓示の直接的結果なのである。(「落穂集」、#74)
5. 神の大業に忠実であり続け、彼の道にゆるがずに確固としていた魂は、昇天後、全能者が創造し給うたあらゆる世界に利益を与え得る程の力を所有する。その様な魂は、理想の王と聖なる教育者の命令により、存在の世界を発酵させる純粋な酵母(こうぼ)を供給し、この世の技巧や驚異を顕(あら)わさせる力を供給する。(「落穂集」、#82)
6. 汝の詩の一句一句は、まことに、鏡のようであり、そこに、汝が神とその選ばれし者らに対して抱く愛と献身の証跡が映し出されている。発言の美酒を飲み、静かに流れる真の知識の小川から汲んで飲んだ汝は幸いなり。自分の分け前を飲み、神のもとに達した者は幸いなり。そして、無頓着な者には災いあれ。汝の詩をじっくりと読み、それがいかに優れているか示された。それは、再開の光と離別の炎の両方を示していた。(「ローヘ・マクスード」、『ケタベ・アグダス後に啓示されたバハオラの書簡』より)
アブドル・バハの書簡より7. おお、神の音楽家よ!...神聖なる庭園に住む友好の鳴き鳥は、この時代にては、草原の鳥たちが感極まって飛んでいくような、躍動的な歌をさえずらなければならない。また、この聖なる祭典、天上のごとき祝宴にて、鳴き鳥は、西洋と東洋の人々が歓喜に満たされ、至上の幸福感で恍惚とされるほどに、リュートやハープ、ヴィオルやリラ(竪琴)を美しく奏でるべきである。今や汝は、バルボド[1]が生き返り、ルダキ[2]が慰められ、ファラビ[3]がじっとしていられなくなり、イブニ・シナ[4]が神のシナイ山へ導かれるように、その天なるリラの旋律を奏で、天上のリュートを弾くがよい。挨拶と賛美が汝にあらんことを。(ペルシャ語の英訳より)
8. 汝が、「祝福された美」が啓示なさったペルシャ語の詩をすべて暗記し、比類なき甘美な声で、バハイの会合や集まりにてそれらを歌うことを、われは心より願っている。これらの詩に西洋風の音楽がつけられ、これらの歌の甘美な旋律が最高の喜悦と喜びを持ってアブハ王国に達する日は、そう遠くはない。(ペルシャ語より英訳)
9. 音楽という芸術は、最高の段階まで発展させなくてはならない。これは、最もすばらしき芸術のひとつであるから。また、「一体性の主」のこの栄光ある時代において、物事を極めることは非常に不可欠なことだからである。芸術的な完成に達せられるよう努めなくてはならない。物事を中途半端に終わらせてはならない。(ペルシャ語より英訳)
10. おお、神のバラ園の鶯よ!歌声は幸福と躍動を人類世界にもたらし、聞く者を喜ばせ、歓喜させ、より深い感情を刺激する。しかし、この喜び、この感情は一時的なものであり、短時間で忘れられる。しかし、神に誉れあれ、汝は、汝の旋律を御国のそれと調和させた。そして、汝は、精神世界を慰め、精神的な感情を永遠に刺激しよう。これは時代と世紀の変遷を超えて、永久かつ永遠に持続するであろう。(ペルシャ語の英訳より)
11. おお、バハの僕よ!音楽は、全能者の敷居にて賞賛さるべき技能と見なされている。汝は大きな会合や集まりにて、すばらしい旋律で聖句を唱えるであろう。また、マシュレゴウル・アズカーにて天上の群集を魅惑するような賛美の歌を歌うであろう。これにより、音楽という芸術がいかに、崇敬され、賛美されているかがわかろう。できるならば、精神的な旋律や歌や調べを用い、地上の音楽を天上の旋律と調和させよ。そうして、汝は、音楽がいかに大きな影響を及ぼし、天国のような喜びと生命を与えてくれるかをしるであろう。聖なる神秘の鶯が歓喜と喜びにて満たされるような旋律と調べを奏でよ。(ペルシャ語の英訳より)
12. 汝はその芸術を極めようと努めていると聞き、われはうれしく思う。なぜならば、このすばらしき新時代において、芸術は崇拝であるから。それを完成させようと努力すればするほど、汝は神に近づく。芸術活動が主を崇拝する行為と見なされること――これよりもすばらしい賜物があろうか。つまり、汝の指がブラシを握っている時、それはあたかも、礼拝堂で祈りを捧げているようなのである。(ペルシャ語より英訳)
13. すべてのすばらしい奉仕の中に、子どもの教育、そして、様々な科学や工芸や芸術の促進がある。神に誉れあれ、汝らは今、この目的のために大変な努力を払っている。この最も重要な仕事にたゆまぬ努力をすればするほど、神の確証を目撃しよう。汝ら自身が驚くほどの確証を受けよう。(ペルシャ語の英訳より)
14. おお、「アブハの美」について甘美な旋律でさえずる鳥よ!このすばらしき新しい律法時代には、迷信の暗幕は引き裂かれ、東洋の人々の偏見はとがめられた。東洋のある国々では、音楽はとがめられるべきものとみなされていた。しかし、この新時代には、「明白な光」なる御方は、その聖なる書簡において、歌または演奏は、心と魂のための糧であると明白に述べられた。
音楽という芸術は、最高の賛美に値する芸術のひとつである。それは、全ての嘆く者の心を動かす。それゆえに、おお、シャフナズ[5]よ、友人たちの集まりにて、すばらしき調べで神の聖なる言葉を演奏し、歌うが良い。それにより、聞く者は、悩みや悲しみの鎖から解放され、魂は喜びで躍動し、「栄光」の領域への祈りを捧げて頭(こうべ)を垂れるであろう。
(「アブドル・バハ書簡集」、74.1-74.2段落)15.それゆえに、おお、神の愛されし者らよ!汝ら自身が、この発展と全ての確証を示し、神の祝福の焦点となり、神の一体性の光の源泉となり、文明化された生活の贈物と恵みの促進者となるまで、多大なる努力を払うが良い。その地において、人類の完璧性の先駆者となり、様々な分野の知識を推進し、発明や芸術の分野において活発かつ進歩的であれ。人々の振る舞いを正し、道徳的な人格においては全世界に勝るように努めよ。子どもらがまだ幼い時に、天なる乳房から飲ませ、全ての優秀性の揺りかごで育み、ご恩恵の抱擁で包み育てるが良い。あらゆる役に立つ知識を授け、あらゆる新しく、まれで、すばらしき工芸や芸術の恩恵にあずからせよ。(「アブドル・バハ書簡集」、102.3段落)
16.おお、神のご好意を受け取った汝らよ!このすばらしき新時代では、科学や芸術を教えることは揺るぐことのなき基盤である。明白な聖典の原文によれば、あらゆる子どもには、必要に応じて工芸や芸術を教えなくてはならない。ゆえに、あらゆる町や村に学校が建てられ、そこで、あらゆる子どもは、必要に応じて勉強しなくてはならない。(「アブドル・バハ書簡集」、109.1段落)
17.おお、汝、御国の息子よ!何事も、神の愛があれば有益となる。逆に、神の愛が欠けていれば、有害となり、恩国の主と人間の間の暗幕となってしまう。神の愛があれば、あらゆる苦さは甘さに変わり、あらゆる恩恵は健全な喜びとなる。たとえば、甘美な音を奏でる旋律は、神の愛に満たされた心には、生命の精神そのものをもたらす。しかし、官能的な欲望に溺れた魂は、肉欲で汚してしまうのである。(「アブドル・バハ書簡集」、154.3段落)
18.おお、快き調べを奏でる鳥よ!汝の書いた詩の小冊子を読んだ。それは、とても美しい詩である。それは喜びをもたらす。なぜなら、精神的な賛美歌であり、神の愛を奏でる旋律であるから。
愛されし者らの会合で、出来る限り、この旋律を奏でることを続けよ。それにより、聞く者の心は安らぎ、喜び、神の愛と調和するであろう。雄弁な表現と美しい感覚と甘美な曲とが、新しい旋律と調和すると、大きな効力を発する。特に、それが一体性を述べる聖句の賛美歌であり、栄光の主を賛美する歌である時は、そうである。天なる音楽で唱える美しい詩を書けるよう、最大の努力をせよ。そうすれば、その美は、聞く者の知性に影響し、聞く者の心を印象づけるであろう。(「アブドル・バハ・アッバースの書簡」、第1巻、p.59)
19.おお、汝、名誉ある者よ!神に感謝するが良い。汝は、音楽と旋律に関する訓練を受け、永久なる御方、生命ある御方を賛美し、称える歌を、快い声で歌っているのだから。汝が、この才能を、祈りや嘆願に用いるよう、神に祈る。それにより、魂は活気づけられ、心は引きつけられ、全ての者が神の愛の火により燃え上がるように。(「アブドル・バハ・アッバースの書簡」、第3巻、p.512)
20.自然界における最初の知覚とは、理知的魂の知覚である。この知覚と力は、怠惰な者も勤勉な者も、信者も不信心者も、すべての人間が共有する。
この理知的魂は、神の創造である。それは他の創造物を包み込み、それらに勝る。それはより高貴で、傑出しているので、万物を包含する。理知的魂は、事象の実体を発見し、存在物の特質を理解し、生存の神秘を見抜く力がある。全ての科学、知識、芸術、驚くべき出来事、機構、発見、事業は、理知的魂知性を行使することから生じるのである。(「質疑応答集」、第58章)
アブドル・バハの講和より21.これはなんとすばらしい集まりであろう!これらは御国の子どもたちである。今聞いた歌は旋律も言葉も、非常に美しい。音楽という芸術は聖なるものであり、効果的なものである。それは精神と魂のための食べ物である。音楽の魅力と力により、人間の精神は引き上げられる。また、子どもの心にすばらしい影響を及ぼす。子どもたちの心は純粋であり、旋律が大きな影響を及ぼすからである。子どもたちの心に授けられた潜在能力は、音楽という媒介を通して表現されるであろう。ゆえに、子どもたちが音楽に優れるように努めるが良い。子どもたちが上手に、効果的に歌えるように教えるが良い。子どもたちがみな、音楽について何らかのことを知っておくことは不可欠である。なぜなら、この技能なくして、楽器や声が奏でる旋律についてたしなむことは出来ないからである。同じように、学校は、生徒の心や魂が活気づけられ、喜ばせられ、生活が楽しく、明るくなるように、音楽を教えなければならない。(「万国平和の普及」、英語改訂版、p.52)
22.「演劇は最も重要である」とアブドル・バハはおっしゃった。「過去に、演劇は非常に教育的な効果を発した。これからもそうなるであろう」。アブドル・バハは、ご自身が幼い時に、「アリの裏切りと情熱の神秘劇」をご覧になった時のこと、その劇が彼に影響を与えて、何日も夜、眠れなかったことをお話になった。(「アブドル・バハのロンドン講和集」、英語版、p.93)
23.アブドル・バハはおっしゃった――「全ての芸術は、聖霊からの贈物である。この光が、音楽家の心を通して輝く時、それは、美しい和音として現される。また、詩人の心を通して輝く時、それは、優れた詩や散文として現れる。真理の太陽の光が画家の心を刺激する時、画家はすばらしき絵を描く。これらの贈物は、神を賛美する時、最高の目的を果たすのである。(Chosen Highway、p.167)
24.心や精神にとって、対称性、調和、完全性を示すものは何でも、喜びとたしなみを感じることは自然なことである。たとえば、美しい家、よく設計された庭園、対称性のある線、優雅な動き、よく書かれた本、美しい衣服など。優雅さや美のあるものは全て、心や精神にとって喜びとなる。ゆえに、真に美しい声もまた、深い喜びをもたらすことも確実である。(「アッカ訪問記」、Mary Lucas、英語版、pp.11-14)
ショーギ・エフェンデイのメッセージより25.穏当、純粋、節制、品位や高潔であることを含意する、こうした純潔で聖別された生き方は、服装、言葉遣い、娯楽とすべての芸術と文芸の趣味に関連するあらゆることにおいての中庸まで包括します。肉欲と不純な好みを制限するために、毎日の用心を要します。浅薄で、誤った好みに過剰に執着を示す、軽薄な行動を放棄することも求めます。すべてのアルコール性飲料とアヘンやその他の習性となる麻薬を完全に断念することを要求します。芸術や文芸の悪用、ヌーディズム(裸体主義)や試し結婚、不倫と、あらゆる種類の乱交、容易な親交や性的な不道徳を非難します… (「神の正義の到来」The Advent of Divine Justice, Wilmette: Bahá'í Publishing Trust, 1984, p. 30)
ショーギ・エフェンデイの代理による手紙より26.1931年10月27日付のお手紙と、「Lonely Stranger」という題名の音楽を...さんを通していただいた旨を伝えるように、ショーギ・エフェンデイより言われました。守護者は、大業が成長し、才能ある人たちがこの旗のもとに集まるにつれ、自分らの魂を動かす聖なる精神を芸術において現すことを、心より望んでおられます。あらゆる宗教が、何らかの芸術をもたらしました。この大業がどのような驚異をもたらすか、見ることにしましょう。このような栄光あふれる精神は、当然、栄光あふれる芸術のはけ口となるはずです。まことに美しいその礼拝堂は、夜明けの最初の光に過ぎません。将来、さらにすばらしいものが現れることでしょう。(1931年12月11日、個人への手紙)
27.守護者は、「The Baha’i World」のひとつのセクションを、バハイの人たちが書いた詩を載せるために新たに増やそうと望んでおられます。それは、小さなスタートかもしれませんが、将来現れるであろう偉大な業績の始まりなのです。ショーギ・エフェンデイは、それにより、自分たちに活気を与えるすばらしい精神を表現するよう、才能ある人たちに励ましておられるのです。大業には、詩人や著作家が必要であり、この試みは、才能ある人たちを励ますひとつの有効な手段なのです。ある詩は、かなり若い人たちにより書かれたものですが、とても優れていて、読む人を感嘆させるほどです。ペルシャでは、大業は、バハイでない人たちでさえ偉大だと思わせるような詩人たちが生まれました。やがて、西洋でもそういう人たちが生まれることを期待しています。(1932年1月2日、個人への手紙)
28.バハオラの精神が広まることにより、芸術や文学の分野において新しい時代が到来すること、これは明らかです。これまでは、形態は完全だったが精神がかけていたものが、これからは、生気を与えられた天災により計り知れぬほど改善された形態において、栄光に満ちた精神が現れることでしょう。(4/3/32、個人への手紙)
29.1932年5月18日付のあなたのお手紙を受け取ったことを伝えるように、ショーギ・エフェンデイは言われました。あなたが「夜明けを告げる人々」が気に入ったと聞いて、守護者は喜んでおられます。なぜなら、労苦を重ねて大成したこの作品を通して、友らが、この「大業」を動かした精神と、それを世にもたらした英雄たちの模範的な人生とをよりよく理解できているということが何よりの報いだからです。守護者は、この本を緒読むことにより、友らが刺激され、より活発な活動をし、より大きな犠牲を払えるようになることを心より、望んでおられます。友らは、この大業が拡大し、最終的な勝利を収められるように使命を託されていますが、それに関する理解をより深めることを、守護者は望んでおられます。すでにこの本を読んだ人が述べていたように、夜明けを告げる人々の人生について知った人は、彼らの後に続かざるを得ないのです。
これらの英雄の精神は、芸術家たちが最高の作品を作り出せるよう、必ずや、影響を及ぼすでしょう。過去に、詩人を刺激し、画家のブラシを動かせたのも、そのような英雄たちの人生だったのです。
30. あなたが製作なさった「Pageant of the Nations」という催しが成功したことを聞いて、ショーギ・エフェンデイは、とても興味を示しておられました。彼は、そこに参加した人たちがみな、あなたご自身が製作にあたって影響を受けたのと同じ精神により、刺激されたことを願っておられます。
そのようなプレゼンテーションを通して、大業に対する大衆の関心を引きつけることができるのです。大業の精神や教えが、舞台や芸術、あるいは文学全般において提示され、大業が燎原の火のように広まる日がやがて来るでしょう。特に、大衆の間では、理論的なものよりも、芸術の方が、そのような高貴な感情を呼び起こすのに適しています。
バハオラにより吹き込まれた精神が、芸術家たちの活動にどう表現されていくかは、数年もすれば明らかになるでしょう。あなたや他のバハイの人たちが試みていることは、輝きに満ちた朝日を告げる、ぼんやりした光に過ぎません。(バハイの)大業が社会生活において果たすであろう役割については、今はまだ評価することはできません。時間が必要です。この精神が吹き込まれる資源はまだ粗野で、足りません。しかし、やがてはその段階から脱却し、バハオラの大業が最高の輝きで現れることでしょう。(10/10/32、個人への手紙)
31.守護者は、あなたが美しい音楽をつけておられるその賛美歌を高く評価しておられます。それの歌は、確かに、(バハイ)信教の本質を含んでおり、「メッセージ」を若い人たちに伝える助けとなるでしょう。人間の精神に影響を及ぼす助けとなるのは、音楽です。それは、魂との意思疎通をするのを助ける、重要な手段です。守護者は、あなたが、この助けを得て、「メッセージ」を人々に伝え、人々の心をひきつけることを願っておられます。(11/15/32)
32.バハオラが、「言葉に始まり、言葉に終わる学問」とおっしゃったものは、真理に達するのを援助するというよりも、人の心を参らせてしまうような神学論の論文や解釈のことを主に指しています。そのような学問を学ぶ学生は、一生をその学習にあてても、どこにもたどり着かないのです。バハオラは、物語の執筆をこの部類に入れられたということは決してありません。また、筆記法やタイプライテイングも、とても役に立つ技能です。現代の社会や経済の分野では、とても需要があります。あなたができること、そしてすべきことは、あなたがた執筆するストーリーを、読む人へのインスピレーションとガイダンスになるようにすることです。そのような手段を用いて、大業の精神と教えを広めることができます。また、今日の社会に存在する悪を示し、また同時に、それをどのようにしてなくしていけるかを示すことができます。あなたは、執筆という分野に真に才能があるのであれば、それは神からいただいたものと見なすべきですし、それを、社会の改善のために使う努力をするべきです。(11/30/32)
33.ナビルに捧げられた、あなたの詩に、私はとても感動しました...わたしは、あなたがその才能を活かして、ナビルの不滅の物語からある部分やエピソードを取り上げて、詩を書かれることをお勧めしたいと思います。あなたは、大業に独特で顕著な奉仕をしておられます。前向きな姿勢で、この高遠なる努力において、たゆまずに進んでください。(8/6/33、守護者の肉筆による追記)
34.賛美歌をバハイの会合で歌うことについて――守護者は、それについてなんら異議はないと述べておられます。音楽は、あらゆるバハイの会合で重要な要素です。師アブドル・バハご自身も、それについて強調しておられました。しかし、友らは、音楽にせよ、他の事柄にせよ、中庸を超えないようにすべきです。また、会合の精神的な性質を維持するように注意を払うべきです。音楽は精神性を高めるものであるべきです。そのような雰囲気を引き出すという条件であれば、異議は全くありません。
しかし、信者が書いた歌と聖なる言葉を唱えて歌うこととは、明確な区別をすることが重要不可欠です。35.「バハイの歴史的な出来事を劇にすることに関する質問について――守護者は、もちろん承認なさいます。むしろそのような文芸活動をバハイの友に奨励なさいます。それは、疑いなくテイーチングに役立つ価値が多いにあります。守護者が避けて欲しいと感じられるのは、バブ、バハオラ、およびアブドル・バハを劇にすること、つまり、舞台に現れる登場人物として扱うことです。これはすでに指摘されていることですが、守護者はとても不敬に値すると感じておられます。彼らが場面に出てくるということ自体、無礼な行為であり、それは彼らの崇高な地位に決して適切でありません。彼らのメッセージ、あるいは実際に発された言葉は、できれば舞台に出てくるその使徒たちにより報告する、あるいは伝えるべきです」(守護者の代理よりある信者へ、1936年7月25日)
36.守護者はまた、あなたが音楽に深い関心を持ち、この方面で信教に奉仕したいと思っておられることを知り、喜んでおられます。今はまだ、バハイ芸術の時代の始まりに過ぎませんが、芸術の才能がある友らは、その才能をさらに伸ばし、バハオラがこの世に吹き込まれた「聖なる精神」を――それがいかに不十分であっても――作品に反映させるよう、努めるべきです。(11/4/37、個人への手紙より)
37....あなたは、将来、バハイの音楽家や作曲家のインスピレーションの源は何になるであろうか、過去の音楽なのか、神の言葉なのか、という質問をなさいました。まだバハイ文化の入り口に立っているわれわれにとって、将来、この「強大なる新しい啓示」に霊感を受けた芸術がどのような形態を有し、どのような特徴を持つかということを予期するのは不可能です。確信できるのは、それがすばらしいものになるであろうということだけです。なぜなら、あらゆる(神の)信教は様々な形態で花を咲かせた文化を生んできたからです。したがって、われらの敬慕する信教もまた、同じように文化を生むことでしょう。ただそれがどのような文化になるかを理解しようとすることは、今はまだ時期が早過ぎるだけです。(12/23/42)
38.芸術のひとつとしての音楽は、文化的な発展の自然な現象です。守護者は、「バハイ音楽」という(型にはまった)ものを開発すべきでない、と感じておられます。それは、絵画や文学に関するバハイの流派を開発すべきではないのと同じことです。信者は、自分の才能が導くやり方で、自由に絵を描き、物を書き、音楽を作ることができます。聖なる言葉を含めた音楽作りをするのであれば、それは自由にそうすることができます。しかし、バハイの会合で、必ず、そのような音楽を用いるべきであるという必須条件と考えるべきではありません。一定の形態から解放されればされるほど、好ましいです。なぜなら、大業は、普遍的なものであることを友らは理解すべきですし、また、フィーストなどの行事に加えるすばらしい要素として見なされたものが、他の国では、不快な音として聞こえることもあるからです。また、その逆もまた可能だからです。つまり、音楽をたしなむことは当然よいことですが、バハイ音楽として型にはめることはすべきでありません[6]。(7/20/46、ある全国行政会へ)
39....彼は、あなた方の行政会に、非常に重要な事柄、つまり「最大名」に注目していただきたいと思っておられます。書道という芸術――これは東洋で最も発達していますが――の訓練がない西洋人にとっては、主な特徴さえおさえていれば、どのように書いても「最大名」として目に映ります。しかし、東洋人にとっては、それは奇怪なものに見えるでしょう...各部分の釣り合いは正確に保たなくてはなりません。「最大名」は、楕円形や円形の空間にうまく収めるために、横や縦に引き伸ばしたりしてはなりません。(12/22/48)
40.そのビジョンと技能を通して、西洋で最初のマシュレゴウル・アズカーをデザインするのに貢献し、その特色の基礎を表したのは、あるフランス系カナダ人です。それは、いかに根本的なレベルであったにせよ、バハイの芸術がやがて、最高の輝きで世界中の目に繰り広げる美を表現しようとした、最初の試みでした。(3/1/51、守護者の肉筆による追伸)
41.音楽は芸術のひとつですが、預言者たちは芸術そのものを教えることはしません。しかし、宗教が社会に与える多大な文化的刺激により、新しくすばらしい文化形態が、徐々に産み出されていくのです。キリスト教、イスラム教、仏教、あるいは他の文明と関連する様々な建築や絵画の様式に、これを見出すことが出来ます。音楽もまた、人々の表現法として発達していったのです。
わたしたちは、将来、バハイの精神が世界中に浸透し、社会を大きく変えた頃には、音楽もその精神によって影響を受けると考えています。しかし、「バハイ音楽」という(厳格なジャンル[7])はありません。音楽について、バハイの教えで述べられているのは、音楽は人の心と魂に強い影響を及ぼすことができ、精神を高める大きな効力があるということです。(2/3/52)
42....教えには、ダンスをしてはならないという言葉はありません。しかし、友らは、バハオラの掲げられた標準は、慎み深さや純潔であることを忘れてはなりません。現在のダンスホールの雰囲気は、喫煙や飲酒やふしだらさが蔓延(まんえん)しており、好ましくありません。しかし、上品なダンスは、それ自体に害はありません。クラシック・ダンスをしたり、学校でダンスを習うことには当然、問題はありません。演劇に参加することにも、害はありません。映画俳優をすることも、そうです。今日(こんにち)、有害なのは、芸術そのものではなく、これらの芸術を取り巻く、不幸にも腐敗した状態です。私たちは、バハイとして、芸術を避ける必要はなく、むしろ、時々これらの職業に伴う行為や雰囲気を避けるべきなのです。(6/30/52、ある全国行政会へ)
万国正義院及び万国正義院の代理による手紙より43.広報自体は周到に練られ、威厳があり、厳粛さがなくてはなりません。派手なアプローチは、最初は大業に注目を引くかもしれませんが、最終的には嫌悪感を引き起こし、それは、なかなか克服することができません。敬慕する守護者が用いられた威厳と厳粛さの標準を常に守らなくてはなりません。また、『師』の写真も無分別に用いてはなりません。しかし、これは、ユース活動を台無しにするということではありません。厳粛さをなくしたり、大業の威厳を損なうということなしに躍動的であるということは可能なのです。(7/2/67)
44.バブ、バハオラ、アブドル・バハの言葉を主に用いた歌はみな、フィーストの祈祷の部に適切であるということを知れば、あなたに役に立つと思います...実際、ペルシャ語の詠唱はそのような歌であり、ただ異なる伝統文化を背景としているだけです。それは、聖なる「言葉」にメロデイーをつけるというやり方で、それを唱える人は、自分が発する「言葉」から感じるものを映し出すように歌っているのです。信教の「重要人物」以外の人が書いた詩や言葉のついた歌は、好ましいものですが、それが適した場所があります...
われわれバハイの集まりは、その礼拝の雰囲気や質、参加者の気持ちや神の言葉に対する感謝などに影響を受けますから、あなた方の共同体は、音楽を含めた様々な感情の表現法を用いて、人間の精神をできる限り美しい方法で表現することを奨励いたします。(2/22/71)
45.バブとバハオラの肖像画を芸術作品にすることは禁じられているという、あなたの理解は正しいです。守護者は、この禁止は神の全ての顕示者に与えはなることを明確にしておられます。『師』の写真や肖像画の複製は、書籍においては許可されますが、演劇やその他「登場人物」として現れるような作品で描写することはできません。しかし、これらの「聖なる人物」を象徴的に表示することには問題ありません。ただし、それは、儀式化したりしないこと、また、威厳を損なわないものであることが条件です。(12/3/72)
46.マーク・トービーやその他の芸術家が、バハオラの啓示への愛により霊感や影響を受けたことは疑いの余地はありませんが、バハイ律法時代のこの段階で、信教が芸術全般にどのような影響を及ぼしたかということを語るには、まだ時期が早すぎます。バハイの書では、新しく、美しい芸術の開花が将来見られるという言及はありますが、守護者ご自身も、バハイ・アートというものは、まだないと指摘しておられます。(1/17/73)
47.敬慕する守護者は、芸術の開花は、聖なる啓示が現されてから何世紀も経って、その結果として生じるものであるということを明確にしておられます。バハイ信教は、人間社会の根本的再建を世界に提供します。それは、遠大なる成果をもたらす再建で、過去の全ての神の啓示で予期され、神の御国を地上に建てるという表現で呼ばれてきたものです。この啓示が生み出す新しい建築様式は、今から何世代も経ってから花を咲かせるでしょう。わたしは今まだ、この偉大なる過程の始まりに立っているにすぎないのです。
現在は、騒乱と変化の時期です。建築も、他の全ての芸術や科学と同様、急速な発展を遂げています。これから近い将来、どのようなことが起きるかを知るには、過去数十年の間に起きた変化について考えてみればよいでしょう。近代的な建築物の一部は、疑いなく、優れた特質を有しており、持続するでしょう。しかし、現在建設されているものの大部分は、廃れてしまい、これから数世代後には、醜いものとして見られるかもしれません。つまり、近代建築物は、新しい発展の初期段階にあると見なすことが出来るでしょう。(7/18/74)
48.万国正義院は、信教発展における現段階の主な責任は、アブドル・バハの「聖なる計画の書簡」で述べられている目標を達成するために立てられたテイーチング計画の準備と実行である、と考えています。それで、芸術や科学の理論に関しては、それらの分野に精通し、それらを専門とする人々の援助の下で開発されるべきであると考えています。(1/25/77)
49.「絵画や線画あるいは劇などにおいて神の顕示者を表現することの禁止は、神の全ての顕示者に当てはまります。もちろん、過去の宗教制では神の顕示者を畏敬と愛の精神において表現したすばらしい、偉大な芸術作品があります。しかし、この宗教制では、人類は成熟し、最高の顕示者とその僕(しもべ)らの関係についてもより意識が高まり、神の顕示者を人間的に表現すること――それが絵画であれ、彫刻であれ、演劇であれ――が不可能であることが理解できるようになったのです。このバハイの禁止の令を出すことにより、守護者は、この不可能性を指摘しておられるのです。」(万国正義院の代理よりある信者へ、1977年3月9日)
50.この破壊的な力が、世界の政治的・経済的・科学的・文学的・道徳的均衡を狂わせており、現在の文明の最もすばらしい実りを破壊しているのです...音楽や芸術や文学は最も崇高な思いや切望を刺激し、表現するものであり、悩める魂のための慰めと平穏の源となるべきなのですが、それらでさえ、まっすぐな道から逸れています。そして、混乱し、無節操で、無秩序な時代の穢れた心を映し出しているのです。(万国正義院から世界中のイラン人バハイへ、1980年2月10日)
51.神の大業について広めるのに役立つと作家たちが望んでいるフィクション作品は、特定の出来事を背景として設定するか、または神の大業において展開する過程を背景として設定することにより、歴史的な出来事そのものやその出来事に登場する人物をそのものを描写するより、もっと効果的にこの目的を達成できます。実際の出来事や人物は、フィクションよりもずっと説得力があります。これについて、守護者の秘書は、彼の代理として次のように書いています:
守護者は、テイーチングの手段としてのフィクションをお勧めにはなりません。世界が置かれている状況はまありにも深刻すぎて、バハオラの名前に直接関連づけられた教えを伝えることに遅れを取ることは許されないのです。しかし、あらゆる分野の人々、いろいろな考えを持った人々、すべての人々に大業について知らせるにあたって、特定のグループに適したアプローチは当然、賞賛に値する努力であります。
(万国正義院の代理からある信者へ、1980年9月23日)52.芸術に関するあなたのお手紙を受け取りました。万国正義院は、バハオラの教えの精神を表現するために芸術を用いようとするあなたの努力を賞賛しておられます...
信教について芸術家に教えるにあたり、何が最善の方法であるかというあなたのお問い合わせに関してですが、一般的な人々を引きつける方法に加え、芸術家はやはり芸術に引きつけられるということが言えます。信教の荘厳なる教えが芸術作品に反映される時、人々の心は、芸術家の心も含めて、動かされるのです。聖典からの引用文、あるいは聖典に関連づけた芸術作品の描写は、鑑賞する人に、この精神的な感動の源泉が何であるかを理解させ、信教についてもっと学習するように促すことでしょう。(万国正義院の代理からある信者へ、1982年7月21日)
53.バハイ共同体は、多様な文化や習慣を背景とした人々により構成されていますが、それぞれにとって、何が美的に好ましく適しているかという概念が異なります。そのような共同体が進化していくにつれ、音楽や演劇や美術に才能のあるバハイの人々は、神の信教に奉仕するにあたり、自由にその才能を活かすことができます。したがって、一部の信者たちにより価値を理解してもらえなくとも、落胆してはなりません。むしろ、音楽や芸術による表現に関する信教の説得力ある言葉を基盤として、芸術は大業に奉仕するための強力な手段であるという祈り深い認識を持って、やがてバハイとしての実りをならす芸術の活動を続けるべきです。
(万国正義院の代理からある信者へ、1983年8月9日)54.信教の英雄時代に出てくる人物を美術的に表現することに関するガイダンスを求めておられる手紙を受け取りました。「生ける文字」を線画で表現したり、歴史的に正確な出来事への登場させることを禁止するような言及は、守護者や万国正義院の文書にはありません。明らかに、そこで描写される人物は、正確性に加えて威厳を保つことも重要です。(万国正義院の代理からある全国精神行政会へ、1983年10月5日)
55.建築学は、この時代の文明のあらゆる局面と同じように、急速な発展を遂げており、その趣向も10年ごとに変化しています。現在広まっている建物が、50年後の人々の目に美しいと映るかどうかは誰も確信できません。それで、敬慕する守護者は、信教の世界行政センターのために古典的なギリシャの建築様式をお選びになったのです。それは成熟した、とても美しい様式で、現に2000年も続いてきています。しかし、これを根拠に古典的ギリシャ様式が特にバハイ建築であると結論することは正しくありません。(万国正義院の代理からある個人へ、1984年9月3日)
56.凡庸な低い見解を捨て、若者たちは熱望しているすべての事柄に卓越しなければなりません。若者たちは学校の教室であろうと、大学の集会場であろうと、職場であろうと、休養又は娯楽中であろうと、バハイの活動や社会の奉仕中であろうと、向かう先々の環境を向上させるよう決意することを願っております。
実に、若者たちが前途に控えている挑戦を自信を持って受け入れられるようにさせよ。粘り強さと、愛の奴隷である態度を持って卓越さとそれに対応する謙虚な気持ちを吹き込み、今日の若者たちはこれからの人類の発展に必要不可欠である職業、専門職、芸術、技術において最善の地位に進展するよう努力しなければなりません。これを確実なものにするために大業の精神は、人類が全力を尽くすすべての重要な分野に啓発を投げかけることでしょう。
さらに若者たちは情報化時代の概念の統一化と著しい技術進歩を熟達させることを目的としながらも、実際に過去のすばらしい、重要な業績を保存する技術を将来に伝達していくことを保証しなければなりません。社会が機能していく上で起こる変化は、若者が将来受け継ぐ世界のためにどれだけ有効的に準備を整えることができるかということに大きく依存しています。(万国正義院から世界中のバハイユースへ、1985年5月8日)
57.万国正義院は、あなたがその本を執筆されるように勧めておられます。ただし、バハイの時代のこの初期段階において、バハイの芸術や音楽、建築や文化といったものはまだ存在しないことを守護者が明確に述べておられることを思い出すように言っておられます。これらのものは将来、バハイ文明の自然な派生物として必ずや出現するでしょう。これらの事柄に関する守護者ご自身の個人的なお好みが、そのようなものの発展する基盤になると見なされてはなりません。カンパラの礼拝堂のデザインとして提出されたものを守護者が却下なさったことに明確に現れているように...守護者の時代に流行していた現代的な建築様式はバハイ礼拝堂としては適切でないとお考えでありました。しかし、それは決して、守護者はご自分なりの建築パターンを制度化されたという意味ではありません。マトウル・バハ・ルヒア・ハヌームによれば、カルメル山上の建物の様式として守護者が古典的なものをお選びになったのは、それが美しく、その地域に適したものであり、かつ、時の経過により試されていた様式だったからです。したがって、あなたは、守護者がバハイの芸術形式の初期の形態を規定なさったという考えを述べたり、結論したりしないよう、注意すべきです。守護者は、入手可能な資源を用いて、また、ご自身の導きに基づいて適切なデザインを作成できる専門家の力を借りて、バブの秒のような美しい庭園や建物を作られたのです。(万国正義院の代理からある個人へ、1985年6月23日)
58.音楽や美術に関して、もちろん、あなた方はそれらを自由にバハイスクールのカリキュラムに取り入れることができます。同胞の全国精神行政会の多くは、音楽や芸術に関するバハイの書をよく知っており、バハイ共同体の発展におけるこの段階で可能と思われる訓練や教材を取り入れています。バハイ世界に現れつつある有益な音楽を刺激し、集め、発行するため、そしてそれらを学校で体系的に活用するためには、献身的で才能ある教師たちにより膨大な仕事が必要です...
教えは音楽や芸術を勧めています。それらは、共同体の活力や精神に計り知れない影響を及ぼします。あなた方の行政会の考えや努力は貴重です。万国正義院では皆様のためにお祈りを捧げております。(万国正義院の代理からある全国行政会にあてられた手紙より、1985年8月20日)
59.芸術において象徴を用いる点についてですが、万国正義院からある二人の個人へあてられた手紙の抜粋が、あなたの求めておられる答えになると思われます:
三人の「重要人物」、バハイの法、バハイ行政機構の重要性を表すために自然現象を象徴的に用いることに問題はありません。また、抽象的な概念を表現するために視覚的な象徴を用いることは適切であると考えます。
バブやバハオラの肖像画を芸術作品として作成することが禁じられているというあなたのご理解は正しいです。守護者は、この禁止は、全ての神の顕示者にあてはまることを明確にしておられます。「師」(アブドル・バハ)の写真や肖像画の複製を書籍に用いることはできます。ただし、いわゆる「登場人物」として演劇やその他の作品で描くことはできません。しかし、これらの「聖なる人物」を象徴的に表現することには問題ありません。その条件は、儀式化されないということと、そこで用いられる象徴が不敬にあたらないということです。
あなたは、あなたの絵画で用いる象徴ときどき詳しく書いて説明しておられます。これは、バハイの概念を不当に解釈することになる可能性がありますので、それはあなたの芸術的な努力を引き立たせるよりも、逆に路線からそれさせてしまうことになります。象徴とは芸術につきものですが、芸術家が自分の用いる象徴を解釈することはあまりありません。むしろ、観る人に独自の結論を下せるようにするものです。あるいは時々、作品の題名から多少の暗示をほのめかす程度です。
芸術作品の題名は、芸術家の特権です。唯一、異議があるとすれば、それは、あるバハイのテーマを表す作品に不敬な題名を用いたりした場合です。
「聖典からの抜粋に現代的なイルミネーションをつけた絵画」に関する質問についてですが、万国正義院は、聖典や最大名を独創的な習字風の作品にすることに関して、芸術家はバハイ機構から制限を受けるべきでないと考えています。しかし、そのような創作は、適切なものであること、愚弄の的にされたりしないものであることが重要です。よく用いられている最大名のシンボルについてですが、万国正義院は、ペルシャ習字による正確な表示法に最大の注意を払うよう指摘します。なぜならば、そのように受け入れられた表示法から逸脱することは、イラン人バハイにとっては耐え難いことでありうるからです。(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1987年2月23日)
60.万国正義院が「師」(アブドル・バハ)の肖像画写真を複製し配布することを奨励しないというポリシーは、肖像画の質を判断しているという意味ではありません。「師」の肖像画の質にはかなりの差があります。万国正義院は、これらの絵画に対する好みを示したいとは思っておりません。むしろ、このポリシーを通して、アブドル・バハに対する適切な敬意を示すこと、そして質の悪い肖像画の写真複製が配布されないようにすることを確保したいと考えています。
ただし、書籍や雑誌における肖像画の写真の発行と、肖像画の写真そのものを単独で発行することとの間には明確な違いがあります。前者は、禁止はされておらず、発行者による多少の判断に任せられています。しかし、正義院は、後者を奨励していません。
もっと一般論として、万国正義院は、至る所でバハイが直面している大きなチャレンジのひとつは、精神性という意識を世界の人々の間に復活させることであると感じています。我々の世界観は、大衆のそれと顕著に異なります。つまり、我々は、創造界は物質界だけでなく精神世界も含んでいるという点です。また、我々の住んでいる物質世界は、精神的進歩のための乗り物であると考えているという点です。
この見方は、バハイの行動に重要な意味合いがあり、一般社会の行動とはかなり異なるパターンを引き出します。バハイの書で強調されている顕著な美徳のひとつは、神聖なるものに対する敬意です。そのような態度は、唯物主義的な視野を持った人々には何の意味もありません。また同時に、確立された宗教の信奉者たちの多くは、そのような態度を真の精神性の欠けた一連の儀式というものにまでレベルを下げてしまいました。
いくつかの例では、バハイの書は、神聖な物や場所に対してどのように敬意を示すべきかついて的確なガイダンスを示しています。たとえば、最大名の用い方や、「師」の録音された音声をむやみやたらに用いないことなどです。しかし、その他の場合は、信者は、バハイの教えから神聖さという概念をより深く理解して、どのような尊敬や敬意を示すべきかを自分で決めることが求められています。
そのような振る舞いの重要性は、バハイの書に述べられている、外面は内面に影響を及ぼすという原則に基づいています。バハオラは、「神の民」について述べているとき、こうおっしゃいました--「彼らの外面的な行動は、内面的生活の反映に他ならず、また、その内面的生活は外面的行動の鏡に他ならない」。
過去数年間に示されてきた懸念について考えるときに、正義院があなたに用いていただきたいのは、この枠組みなのです。芸術的な才能に恵まれたバハイの人たちは、その能力を用いるユニークな立場にあります。つまり、バハイ信教が、その敬意という概念を復活させることにより人類にもたらした精神的再生の証を人類に示せるようにバハイのテーマを用いることができる、という立場です。
芸術的な自由に関する問題は、ここで掲げられた問題とは密接な関係はありません。バハイの芸術家は、自分が関心のある主題に関して自由に、才能を活かすことができます。しかし、唯物主義的な社会に、真の自由と永続する幸福を達せいる重要不可欠な要素として、敬意をたしなむことを復活させる点で、指導者的な役割を演じることが期待されています。(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1987年9月24日)
61.万国正義院は、あなた方の職業的な成功を聞いて喜んでいます。万国正義院は、あなた方がこの職業的な活動を信教への奉仕、そして宣布とテイーチング活動の促進という枠組みの中で見られることを勧めています。あなた方の音楽活動は、広範囲にわたる人々との接触を可能にし、最終的には、あなた方の音楽を通して価値観を表現することにより、バハオラのメッセージを彼らに伝えることを可能にするでしょう。また、あなた方のビジネスが拡大し続けるにつれ、そこで出会う有力な人々の間で、信教のための貴重な友人関係を結ぶことができるでしょう。これらの事柄は、あなた方が今後どこに住むべきかを決めるにあたって導きになるでしょう。自分が選んだ分野で優れ、著名になり、かつ信教の促進に献身的であり続けるバハイの芸術家たちは、バハイの教えに対する大衆の関心が徐々に芽生えつつある現時点において、大業へのユニークな援助を施すことができます。(万国正義院の代理からある二人の個人にあてられた手紙より、1988年6月30日)
62.聖典から言葉を抜粋し、曲をつけ、言葉や節を繰り返し歌うことはできます。これらの点については、次の引用文によりさらに明らかにできます。
ゆえに...聖なる言葉や節に曲をつけよ。されば集まりや会合にて、魂を揺さぶる旋律で歌われよう。また、聞く者らの心は高められ、嘆願し、祈り、アブハ王国へと飛んでいくであろう。(アブドル・バハ)
「隠されたる言葉」などの書簡の一部や祈りの言葉は疑いなく適切でしょう。しかし、それらを短縮することを守護者はお勧めになりません。つまり、書簡の段落やお祈りの部分を飛ばしたりして短くすることです。(ショーギ・エフェンデイの代理からある個人へ書かれた手紙より、1949年7月3日)
口調を整えるために多少、言葉を修正することや、拍子を合わせるために言葉を加えたりすることに関してある信者が出した質問に対して、敬慕する守護者はこう答えておられます。
お祈りの言葉を少しだけ変えることはできます。わたしは、啓示された言葉を音楽としての形態で表すことをお勧めします。それは、非常に効果的であると感じます。あなたが大業のためにこの奉仕を成し遂げられるよう、「最愛なる御方」が霊感をお与えになるよう祈っております。(守護者の代理からある信者にあてられた手紙に添付された、守護者の肉筆による言葉より、1931年4月8日)
バハイの聖典の言葉をすでに存在する音楽に合わせて曲を作ることに関する質問についてですが、著作権やその他の法律上の問題がないという前提条件で言えば、そのような音楽は、もともとの音楽に関連する歌詞やムードなどの影響が残っているであろうこと、また、威厳と敬意を持って聖典の言葉を扱うという条件を満たさないこともありえることを忘れてはなりません。(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1989年12月6日)
63.敬意の精神が適切に表されているならば、身体の動きや踊りに合わせてお祈りを解釈することに問題はありません。しかし、言葉を読み上げるときには好ましくありません。(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1990年1月4日)
64.万国正義院は、あなたが音楽家として遭遇した困難にめげず、神の大業に継続して献身的であり、テイーチング活動をしておられることを知って、喜んでおります。あなたの質問についてですが、バハイの教えはもちろん、音楽家や他の芸術家の虐待を容認するものではありません。また、芸術家は、他のバハイのきまぐれや、頑固な意見のために自分の自由意志を犠牲にする必要もありません。音楽を通して信教を伝える活動と、同時に生計を立てなければならないという二つの事柄の両立からくる衝突と困難についてですが、これについては、あなた自身が限界を設定することを提案いたします。例として、ショーギ・エフェンデイの代理からある信者へあてられた手紙(1933年2月26日付け)に次のようなガイダンスが見られます。
大業への奉仕と他の義務の遂行との間の時間配分に関してショーギ・エフェンデイがあなたにおあたえになった助言は、バハオラと「師」が他の多くの友らにすでにおあたえになったものです。それは、「アグダスの書」にある二つの文節の折衷論であります。つまり、ひとつはあらゆるバハイに信教を伝える義務が与えられていることであり、もうひとつは、あらゆる人が、社会の役に立つ何らかの職業に従事するべきであるということです。バハオラは、ある書簡の中で、この日、最高の離脱の形態とは、何らかの職業に従事し、自活できることである、と述べておられます。したがって、良きバハイとは、物質的な要求を満たすことと、大業への奉仕をすることの両方に時間を捧げられるよう、生活を整える人です。
(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1990年2月15日)65.演劇を用いて信教の教えを人々の間に広めたいというあなた方の誠実なる願いは賞賛さるべきものです。万国正義院は、この分野におけるあなた方の献身的な努力が、あなた方の満足となる成果をもたらし、共同体に役立つよう、願っております。しかし、あなた方も述べておられるように、現時点でバハイの演劇を追求することには困難があり、また落とし穴の可能性もあります。また、不寛容な風潮があなたの国に広まっています。それで、創作する演劇が、公の敵対感を仰いだり、宗教的根本主義者らの憤慨を引き起こしたりしないようにすることが非常に重要です。(万国正義院の代理からある全国精神行政会にあてられた手紙より、1990年4月9日)
66.文化的な表現としての伝統的な踊りは、バハイセンターで行うことができます。しかし、そのような伝統的踊りには通常、根底となるテーマやストーリーがあります。そのような踊りのテーマが、大業の高い倫理的水準に沿うものであるよう、また、低俗な本能や情欲を刺激するものでないよう、注意を払うべきです...
バハイの原則を促進し、広めるために振り付けされた踊りに関してですが、そのような原則の高潔性を表現し、適切な敬意の態度をかもし出すものであれば、聖典の言葉を解釈して創られた踊りをすることに問題はありません。しかし、踊りの動きに聖典の言葉を読み上げることが伴うのは好ましくありません。
このような質問について考える時に友らを導く原則となるのは「服装、言葉、娯楽、そして全ての芸術的・文学的気晴らしの活動における中庸」を守ることです。(万国正義院の代理からある全国精神行政会にあてられた手紙より、1991年6月20日)
67.もちろん、「バハイ芸術家(アーチスト)」というフレーズを用いることに問題はありません。しかし、バハイ時代の現時点では、「バハイ芸術」、「バハイ音楽」または「バハイ建築」といった用語を用いるべきではありません。(万国正義院の代理からある二人の個人にあてられた手紙より、1992年3月12日)
68.小説という媒介は、これまで探索されていなかった考えや思想の分野について著者が詳しく述べるのにかなりの許容度を与えてくれます。しかしあなたは...信教やその教えがはっきりとその小説に出てくるのであれば、正確でない解釈を加えないように注意すべきです。他方、小説の中に信教との明確なつながりがなければ、あなたは、信教の原則に起源のある考えについて、自分の想像をめぐらして探索することができます。(万国正義院の代理からある個人にあてられた手紙より、1994年2月15日)
69.4年計画の目標を達成するための努力をするにあたって、友らは、宣布のためだけでなく、拡大と強化の活動において、芸術を活用することにより注目を注ぐよう、求められています。グラフィックアート(絵画)やパフォーマンスアート(舞台芸術)や文学は、大業の影響力を拡大するために主な役割を果たしてきましたし、これからもそうできます。フォークアート(民芸)の可能性は、村落や町や都会など、世界のあらゆる地域で追求できるでしょう。ショーギ・エフェンデイは、教えに注目をひきつける手段として、芸術に大きな期待を抱いておられました。守護者の代理により書かれた手紙には、その見解が述べられています--「やがて、大業の精神と教えが舞台や美術や文学を用いて提示され、大業が野火のように広がる日が来るでしょう。芸術は、冷ややかな理論よりも、そのような高貴な感情を引き起こすのにより効果的です--特に、大衆の間で、そうです。」(万国正義院から世界中のバハイにあてられたメッセージより、1996年4月21日)
70.大部分の地域では、子どもの教育には十分な注意が払われていませんでした。必要性のある地域では、もっと拡大的なプログラムが開始されるべきです。そのようなプログラムでは、バハイの子どもたちが育まれ、訓練された知性を習得するように奨励され、聖なる教えの健全な知識で啓発され、あらゆるレベルで大業の活動に参加する十分な準備し、文明推進に必要な芸術や工芸や科学の訓練を受けることが必要です。このようなプログラムが、すべての子どもたちに提供されるならば、バハオラのメッセージを社会の広い範囲ですばらしい影響力を発揮する強力な手段となるでしょう。(万国正義院からオーストラシアのバハオラの信奉者らにあてられたメッセージより、1996年4月21日)
(付録)Ruhi Book 5(p.20下段)より抜粋「敬慕する守護者の手紙を調べると、神の顕示者を舞台劇にすることが許されないことが全く明らかです。これは『師』アブドル・バハにでさえも言えることです...強い照明を用いたり、異なる色の照明を使うることに関して、注意深く考える必要があるでしょう。照明を用いることで神の顕示者を少しでも示唆することになれば、用いるべきでありません。しかし顕示者を意味したり具現したりしているという印象が全く与えられないならば、用いることはできます」(万国正義院の代理よりある信者へ、1975年8月12日)
[1] ペルシャの優れた音楽家。紀元後600年頃のササニ王朝時、コスロウ・パルビスの宮廷に仕えていた。数多くの古代楽器を発明し、演奏した。また、歌も歌った。
[2] 「ペルシャの詩の父」と呼ばれる(940年頃死去)[4] 医者・科学者・哲学者で、西洋ではアヴィセンナの名で知られる。著作のひとつに、音楽理論に関するものがある。(紀元980-1027)
[5] この書簡の受取人の名前であるが、同時に、音楽モードのひとつを意味する。[6] この手紙のポイントは、儀式的な意味で型にはまった音楽を導入し、それをバハイ音楽と呼ぶことを避けなさいということである。実際には、共同体内で、便宜上、「バハイ音楽」として呼ぶことがあるものは、この種の音楽ではない。たとえば、バハイミュージシャンが作った音楽をCDで売る場合、それは「バハイ音楽」と呼ばれるが、それは、儀式的・教義的な意味合いで使っているのではない。(訳者注)
[7] 訳注: