私たちは、人間の心を人間の外にある環境から切り離して考えたり、あるいは、このうちの一つが改革されたらすべてが改善されるだろうと考えたりすることは できません。人間は地球と切り離すことのできない存在です。人間の内面的な活動が環境を形成するのであり、また内面的な活動自体も環境に強く影響されま す。一方は他方に作用するのであり、人間の生活における永続的な変化というものは全て、これら二つの要因の相互作用の結果なのです。(1933年 ショーギ・エフェンディの代理による手紙)
多くのグループや運動が、環境問題を深刻にとらえる必要性を認めており、バハイはそれを精神的な見地でとらえるべきであると考えています。人類が現在直面 している環境破壊は、より深い問題、すなわち人間が人間の本質と闘っている一症状なのです。私たちはもう、私たちの精神的本質の再発見と向上を無益なもの として放置しておく訳にはいきません。これは今、私たちは取り組むべき中心的な問題です。私たちは、人類の一体性と創造の一体性の心の意味を発見しなけれ ばなりません。そして、私たちは全て「一本の木の果実であり、一本の枝の葉である」という、バハオラの言葉の真実性を認識しなければなりません。
現 在の環境問題を生み出している根本的な原因の一つは、私たちとその周りの世界との関係を支える精神的な原理と価値観に対する近代社会の無知にあります。自 然の力との密接な接触や自然の恩恵への直接的な信頼感から生じた自然に対する伝統的な畏敬の念は実質的には失われ、地球を破壊に導く経済的、政治的システ ムをもたらした物質主義的、経済的な開発のみを追及する考えにとって換えられてしまいました。そこで今、人類史上、キーポイントとなる偉大な文明を興した 永遠の精神と博愛主義的な原理を再発するだけで、変更に必要な大きな高まりを造ることができ、新たに生態学的により温和な方向に社会を導くことができるの です。万国正義院は、世界の人々に向けた声明、「世界平和の確証」の中で、社会的な問題の根底にある「精神的な原理」を解明することの実際的な重要性につ いて述べています。
あ らゆる社会問題の解決法は、精神的原則・信条、または人間的価値と称せらるものに見いだすことができます。善意の集団は、自分たちの問題に一般的な意味合 いでの実用的な解決法を案出するでありましょう。しかし、通常、善意や実用的な知識だけでは充分ではありません。精神的原則・信条の本質的真価は、人間性 の中に存在するものともよく調和するものの見方を示すことはもちろんのこと、実際的な手段の発見と実践の促進に役立つ姿勢、原動力、意志、熱望を生じさせ ることにあります。
このような原則や価値観は、環境問題についての観念主義や抹消的な捉え方とは一線を画したものです。それは私たちの世界を癒し、さらに発展させるための基 本的で、中心的なものであります。バハイは、どのような状況の下で、どこに住もうとも、自分たち自身と、共同体の改革の基礎として、このような原則と価値 観を持つ意志で結ばれています。この改革の一部として、万国正義院は以下のような提言をしています。
…私たちの共同体の生命リズムを調和させるように環境を保全する努力を援助することは、バハイ活動の中でもより重要なものであるということを確認すべきである。
バハイの書物からの引用文を編纂したこの書は、この呼び掛けに対する積極的な対応を奨励するために作られました。これらの引用文は、自然に対するバハイの 考え方を私たちに賞味させ、自然と人間の関係や、世界の生態学的バランスを保つという私たちの責任についてより深く理解させるものです。これはまた、差し 迫った社会問題の解決についての、バハイの際だった対応をもっと発見したいと思っているバハイ共同体の友人たちにとって、貴重な指標を示すでありましょ う。この重要な課題についての知識を持ったバハイや、地球を心配している人たちは、この世界を地上の楽園にするための努力をするように奨励されるでありま しょう。
目 次地球資源の保存と保護に対するバハイ国際共同体の対応は、バハイの書に見られる基本原理に基づくもので、以下のような原則を含みます。
(1) 自然は聖なる特質の反映である自然の地位は高いとみられ、バハオラは、自然について黙考すると、神の『証』1と『印』2を意識できると述べています。
…私 は何を見ても、それがあなたのことを私に知らせ、あなたの証と印と証拠を思い出させるものであることを発見いたします。あなたの栄光にかけて!私は、あな たの天空へ目を向ける度に、あなたの高遠なること、あなたの比類なき栄光と偉大さとを思い出します。そして、あなたの大地へ目を向けるときは、あなたの権 力の証拠と、あなたのご恩恵の印とを認識させられます。また海を見るとき、それがあなたの威厳、あなたの勢力、あなたの主権と荘厳さについて私に語りかけ ているのを見るのです。また山々について黙考するときはいつでも、あなたの勝利と、無限の力の旗とを見せられるのです。3
自然は「神のもろもろの名称と属性」4を反映します。それは「依存的世界における…神の意志」5の表れなのです。バハオラは次のように書いています。
言挙げよ―自 然は、その本質において造物主、創造主であるわが名の具現されたものである。その具現は、様々な理由によって多様にされている。そして識力ある者らにとっ て、この多様性には印がある。自然は神の意志であり、依存的世界において、また依存的世界を通してその意志が表わされたものである。
それを定め給う御方、全てに賢明なる御方により定められた神の摂理である。6バハオラは、「地球は一つの国であり、人類はその市民である7という世界観を述べており、「地上の民族と親族の最善の盃」8を促進するよう、呼び掛けています。
アブドル・バハは、世界がますます相互依存の傾向に向かっていること、もはや「自給自足」9は不可能である、ということに注目するよう促しています。彼は、「世界的な事業における思考の統一」10において、またその他の重要な生存領域において、統合された世界を指向する傾向がますます強くなるであろうという見方をしています。そしてまさに、統合された行動が必要な重要な分野の一つは、地球の資源保存の分野であります。
(3) 人間の地位と責任アブドル・バハによれば、人間はその内に「潜在し、顕現されている理想的、かつ神聖な力のゆえに」11自然より「高遠で崇高な」12地位を占め、「人間は自然の領域と摂理を支配する」13と説明されています。
従っ て、人間が自然の領域と摂理を支配することは明らかである。自然はそれ自体、活動力がないが人間は進歩的である。自然にはそれ自体の意識というものがない が、人間には意識がある。自然には意志の力がなく、自然にそって作用するだけであるが、人間には強大な意志の力がある。自然は神秘や実在性を発見すること ができないが、人間には特にその能力がある。自然は神の領域との接触がないが、人間はその証と接触している。自然は神について知ることはないが、人間は神 を意識している。人間は聖なる美徳を得るが、自然はそのような美徳について知らずにいる。人間は自分の意志で悪徳を止めることができるが、自然はその本質 の影響力を変えることができない。全てを考え合わせると、人間は自然より優れ、崇高であり、自然に勝る理想的な力を持っているのである。人間には自然が持 たない意識と、意志力と記憶力と知力、聖なる属性と美徳とがある。即ち人間は、その内に潜在し、顕現されている理想的、かつ神聖な力のゆえ、自然よりも高 遠で崇高なのである。14
人間は、植物や動物が持たない内なる機能―自然の秘密を発見し、環境を支配する力―神より与えられたこの力を、建設的な目的に使うという特別な責任を持っています。「この責任を適切に行使することが、(人間の)天分が、有益な結果をもたらすか、それとも、この物質界に大きな損害をもたらすかを決める鍵である」15と万国正義院は指摘しています。
(4) 物質界に対する態度―精神性と物質性の相互作用アブドル・バハは、物質界の発展と人類の幸福は「文明の必要性や物質世界の進歩の必要性」16、並びに「神―その精神的教えは、人類世界の永遠の栄光と、永久の幸福と、啓蒙を保証するものである―からの、魂を揺さぶる呼び掛け」17の両方に依存していることを強調しています。アブドル・バハは、次のように述べています。
しかし、物質的な進歩や業績が、人間的な美徳や精神的完全性や、輝かしき特質や慈悲の特長によって強化されるまでは、そこからは如何なる実りや結果も現れないであろうし、人類世界の幸福―究極の目的―も達成されないであろう。何故なら、物質的進歩や物質界の繁栄をもたらし、この繁栄は、その目的を絶妙に顕示している反面、激しい大惨事や、厳しい苦難もまた、今に起こりうる状態にあるからである。
従っ てもろもろの王国や市や村の、秩序立った状態や、それらの装飾の魅力や、自然資源の新鮮さ、機器の精密さ、旅行手段の便利さ、自然界に関して知られている 知識の範囲、偉大な発明や巨大な事業、崇高な発見や科学的な研究などに目を向ける時、文明は人類世界の幸福と進歩に役立つという結論を、汝は下すであろ う。しかし破壊的で、極悪非道な機械、破壊的な力の開発や火を吹く道具の発明など―これらは生命の樹を根こそぎ引き抜くものである―に目を向けるなら、文明は野蛮と直結しているということが、汝に明らかとなろう。物質文明は、神の導きと、全てに慈悲深きお方の啓示と、神々しい美徳によって確証されて、精神的な行為と御国の理想と、威力の王国の奔流によって強化されない限り…、進歩と野蛮は同時に進んでいく。
それ故、この文明と物質的な進歩は、『最も偉大な導き』と結合されねばならない―そ れによって、この下界が御国の賜物の現れる場となり、物質的進歩が、慈悲深きお方の光輝と結合されるようになる。これは、人間界の美と完全性とが、最高の 優美と輝きとを持って全てのものの面前に明らかにされ、具現されるためである。こうして、永遠の栄光と幸福とが明らかにされるであろう。18
バハオラは、精神的な価値観に注意を払わない、又そのような価値観に沿って行動できないような人生を送る人々の運命について述べています。
…汝らは、わが地上を得意になり、自己満足して歩んでいる。わが土地が汝らに飽き、そこにあるすべてのものが、汝らを避けている…。19
ショーギ・エフェンディは、人間の無頓着さが、「今日の秩序」20の衰退に拍車をかけ、環境に対する実際的な影響を強めていると断言しています。
世界の均衡の崩れ、人類の四肢を襲うであろう震え、人類社会の極端な変貌、今日の秩序の巻き上げ、政府の構造に影響を及ぼす根本的変化…冷 酷な兵器、多くの都市の焼失、地球の大気の汚染、これらの出来事は懲罰的な大惨事の前兆か、或いはそれに伴って現れる顕著な兆候かである。そしてこの大惨 事は『審判』を行う御方であり、人類の『救世主』である御方により定められたように、早晩、現時代のための神の使者の声に一世紀以上も、ほとんど耳を傾け なかった社会を襲い、苦しめるにちがいないのである。そしてこの大惨事は、長い間の堕落のかすから人類を洗い清め、更に、その構成部分は、全世界を包み込 む『親交関係』にしっかり結びつく。またこの『親交関係』はやがて時が熟せば、神により定められた、神秘的に拡大しつつある『秩序』の枠組みへと併合さ れ、更にその秩序の精神化の影響力で急激に刺激され、いくつかの律法時代の過程を通して、人類が進化していく段階で、未だかつて目撃したことのない『文 明』へと開花していくのである。21
2.人間と自然の関係人間と自然の関係は非常に複雑なものです。この事柄の重要性について理解するには、バハイの文書に叙述されている、自然の幾つかの特徴について考える必要があります。また個人の行動と物事の優先順位の決定における価値観と、態度について知る必要があります。
(1) 自然の特徴アブドル・バハは、「世界の殿堂」22は「人間の身体の形と像に似せて創られた」23と指摘して次のように説明しています。
これが意味することは、この世における人間の身体―それは外的には様々な部分からなっているが―は、現実には密接に統合された、理路整然とした実体であるが、この身体と同様に、物質界の構造もまた、諸々の肢体や部分が密着して共に結合された一つの生存物のようなものである。
もし人が万物の実在性を発見する目で観察するなら、存在の世界を共に結合させる最も偉大な関係は、創造物自体の範囲の中に在ることが、明らかとなるであろう。また強力、相互扶助、互恵関係が、存在の世界という統合された身体に不可欠な特徴であることが明らかとなるであろう―何故なら、すべての創造物は互いに密接に関係しており、直接、または間接的に互いに影響され、互いに益を受けあっているからである。
例 えば、如何に一群の創造物が植物界をなし、また別の一群が動物界をなしているかについて考えて見よ。これらの二つの王国は、それぞれ大気(これらは、大気 に生命を依存させている)中のある要素の量を増やす。つまり植物界の成長と発達は、動物界の存在なくしては不可能であり、動物の生命の維持も植物界の協力 なくしては考えられないのである。似たような関係が全ての創造物の間に存在する。故に、協力と互恵関係は、存在の世界の統合されたシステムに内在する、不 可欠な特徴である、と述べられたのである。
またそのような特徴がなければ、全創造物は無にされてしまうのである。24アブドル・バハは別の箇所で「宇宙のそれぞれの部分」25の相互結合関係について、またこのシステムの均衡維持の重要性について以下のように述べています。
宇宙の内なる実在性、それに関係する隠された英知、謎、相互関係および全てを支配する法則について熟考してみよ。宇宙のそれぞれの部分は非常に強力なつながりにより、他のあらゆる部分と結合されており、このつながりには如何なる不均衡やゆがみも入る余地はないのであるから…26
b. 法則の体系化アブドル・バハは「現象の世界は、徹底的に規則と自然の法則の支配を受ける」27と述べています。彼は、自然の「完全なる体系」28と「知性」29、「意志の力」30の欠如を、「物事の組成」31を発見することで、「自然の力(を操る)」32人間の能力と比較しています。
こ の自然は、絶対的組織、決められた法則、完全な秩序、完成した計画に従っており、それから外れることは決してありません。実際、注意深く、鋭い洞察力を 持って見るならば、目に見えない極小の原子から、太陽、大きな星、輝く天体といったような実在の世界にある巨大な物体に至るまで、その配列、組成、形体、 運動のどれもが最高度の体系の中にあり、決して外れることのない唯一の法則のもとにあることがわかります。
し かし、自然そのものを見れば、それ自体は知性も意志もないことがわかります。例えば、火の特質は燃えることです。しかし、意志も知性もなく燃えます。水の 本質は流動性です。意志も知性もなく流動します。太陽の本質は輝くことです。意志も知性もなく輝きます。蒸気の性質は上昇性にあります。意志も知性もなく 上昇します。ですから、万物の自然な運動は強制されていることがはっきりします。動物の運動、中でも人間の運動以外には、自発的運動はありません。人間は ものごとの成り立ちを発見することによって自然に抵抗し、対抗することができます。人間が成した発見はすべて、人間によるものごとの成り立ちの発見のお陰 です。例えば、人間は、東西の情報交換の手段である電信を発明しました。
このように人間が自然を支配していることは明らかです。さ てそのような現存の体系、配列、法則を考えてみる時、自然は知性も知覚も無いのにこれら全ては自然の生み出したものと言えるでしょうか。そう言えないなら ば、知覚も知性もない自然は、全能である神の手中にあることがはっきりします。神は自然界の支配者であり、神は自ら望むものはどんなものでも自然界に出現 させることができます。33
c. 移り変わりと動き移り変わりは、物質界全体を支配する法則です。それは季節の変転の中に見られます。アブドル・バハはこう書いています。
地 球は動き、成長している。山、丘、草原は青々として気持ちが良い。恵みは満ち溢れている。慈悲の雲から雨が降り、眩しい太陽が輝き、満月は天空を飾る。大 洋からの波は小川を満たし、贈物が次から次と贈られ、新鮮な微風が吹き、種々の花の芳香を漂わせている。限りなき宝物は『王の中の王』の手中にある!それ を受け取るために汝の衣のすそを持ち上げよ。34
や がて全世界は、春が来たときのように、その衣を代えるであろう。秋の紅葉と落葉は過ぎ去り、冬の荒涼とした状態は終った。新しい年が訪れ、精神的な春が近 付いている。暗黒の地は青々と生い茂り、砂漠や山々は赤い花に満ちている。荒野の果てから背の高い草が糸杉やジャスミンの樹の前に前衛舞台の如く立ってい る。そして鳥たちはバラの枝で、天国の天使の如くにさえずり、その精神的な春が近付いているとの吉報を告げている。その鳥たちの美しい歌声は万物の真の真 髄を動かし、震わせている。35
アブドル・バハは、「自然界には絶対的な休息というものは存在しない」36「運動というものがあらゆる生存物に必須のものである」37と述べています。彼は存在に関して「合成と分解」38の過程を説明しています。
…合成と分解、存在と非存在の現象について考えて見よ。依存的世界の中のあらゆる創造物は、数多くの様々な原子から構成されており、その存在はこれらの原子の合成に依存している。
つ まり、神聖な創造的力を通して単一要素の結合が起こりこ、この合成により新たな有機体が生じるのである。万物の存在はこの原則に基づいている。しかしこの 秩序が乱れ、分解が起きて崩壊が始まると、その存在物は存在を停止する。即ち万物の破滅は、分解と崩壊のよって引き起こされる。従って様々な要素間の引き 付ける力と合成が生命の手段であり、不調和と分解と分裂が死をもたらすのである。このように、万物の結合力や互いを引き付ける力が、実りある結果や影響を 引き起こすのであり、事物の互いの疎遠と隔絶は混乱と破滅を引き起こす。親和力と互いを引き付ける力とにより、植物や人間など万物が生じるのであり、その 反面、分裂と不調和は分解と破壊をもたらす。39
またアブドル・バハは、物質世界において進化の進路は、先へ進むにつれて複雑になっていくと述べています。
物理的創造の世界では、進化というものは一つの段階の完成についで、次の段階の完成があるのである。鉱物はその鉱物としての完全性を持って植物界に進化し、植物はその完全性を持って動物界へと進み、同じように人間界へと進む…40
d. 多様性花園の花について考えて見よ―花 の種類や色や形態などは異なるが、みな同じ泉の水によって新鮮味を与えられ、同じ風の息吹によって生気を与えられ、同じ太陽の光線によって活気付けられて いる。それ故にこれらの花の多様性は、その魅力を増し、更に美を増すのである。このように、あの統合力、神の御言葉の貫通力が影響を及ぼすと、しきたりや 風習や習慣、考え方や意見の性格の違いは、人類の世界を飾ることになるのである。この多様性、この差異は、人間の身体の肢体や器官の、自然に創り出された 違いや多様性のようなものである。何故なら、各々が全体の美と能率性と完全性に貢献するのであるから…
もしその花園の木や枝や草木、花や葉や実が、すべて同じ形と色であったら、それは目にとってなんと不愉快なものであろうか。
色や形の多様性は、花園を飾り、豊かにし、その効果を増すのである…42…宇 宙のもろもろの王国の中に存在する物や、現象的存在の形態と有機体は、無数、無限である。例えば植物の段階、または植物界には、植物の生命の無限に様々な 形や物質的構造があり、各々がそれ自体において特異である。構成と詳細において二つのものが完全に同じということはない―何故なら、自然において、(同じものが)繰り返し現れることはなく、増大する効力は、ある像や形だけに限られることはないからである。各々の葉にはそれ自体の特異な実態がある。いわば葉としての、それ自体の個性を持っているのである…44
e. 人間界への奉仕アブドル・バハは、鉱物界、植物界、動物界の「完全性」46「原因と状況」45について述べ、これをその「真の繁栄」47―様々な王国の、栄誉に役立つもの―と区別しています。
あらゆる存在の誉れと歓喜は、それぞれの存在理由と環境によって異なります。大地の優秀さ、盛装、完成は、春の雲の恵みをうけて緑の草木でおおわれ、肥沃になることです。花園は美しくなり、庭、野、村、町は美しく飾られます。これが鉱物界の繁栄です。
植 物界の歓喜の絶頂と完成は、一本の木が新鮮な水の流れる岸辺に育ち、優しいそよ風がその上を吹き、太陽の暖かさがその上に輝き、庭師がその栽培の世話を し、日毎に成長して実を結ぶようになる、というようなことです。しかし、植物界の真の繁栄は、動物界、人間界に進入し、動物や人間の肉体の中で消費される 物に置きかわることです。
動 物界の歓喜は、動物が完全な五体、器官、力をもち、必要なものが満たされることです。これが動物界の主な栄光、名誉、歓喜です。ですから、動物の至高の幸 福は、緑豊かで沃肥な牧場や、この上もなく清らかな流水や、美しい青々とした森を持つことです。もしこれらのものが与えられれば、これ以上の繁栄は想像で きません。例えば、小鳥が青々とした果実がいっぱいある森に、美しい高地に、丈夫な木の上に、高くのびた枝のてっぺんに、その巣を作り、そして、必要とす るあらゆる食物と水があれば、これこそ、完全な繁栄です。
し かし動物の真の繁栄は、動物界から人間界へ進入することであり、顕微鏡的な生き物のように水や空気をとおして人間の中に入り込んで同化され、人間の身体の 中で消費されるものに置き換わることです。これが動物界の大きな名誉であり、繁栄です。これ以上の名誉は考えられません。48
f. 自然の不完全性ここでは、自然に関する二つの見解が対比されています。一つは、「自然の世界は完全である」49というものと、もう一つは(自然は)「知力と教育を必要としている」51が故に「不完全」50である、という見解です。アブドル・バハは、「鉱物界、植物界、人間界はすべて教育者を必要とする」52と述べています。
唯物主義者は、自然の世界は完全であるという意見を持ち、聖なる哲学者らは、自然の世界は不完全なものであると宣言する。この二つの見解には大きな違いがある。唯物主義者らは自然の完全性、太陽や月や星、美しい木や地球全体、海などに注目するよう呼び掛ける―完 全な均衡を示している極く些細なものに注意を向けさせる。聖なる哲学者らは、自然のもろもろの光や部分の美を認め、巨大な太陽や、惑星を統制する抵抗し難 い宇宙の力を認識しながらも、自然の王国における外見的な完璧さや完全性を否定する。彼らは、自然は完全であるように見えても実は知力と教育を必要とする が故に不完全であると考える。これに対する証明として、人間は物質的創造の領域において正に神のような存在であっても、人間自身、教育者を必要とするとい う点を挙げている。教育の影響を得ることがなかった人間は野蛮で、肉欲的で残忍である。法律や規制、学校などは人間を訓練し、人間を動物界の暗黒の境界か ら引き上げるためにあるのである…53
存在について考えるとき、鉱物界も人間界もみな、教育者を必要としていることが分かります。も し大地が耕さなければ、役に立たない雑草の生い茂るジャングルになります。しかし耕作人が土地を耕すようになると、生き物を養う穀物を生産するようになり ます。ですから、土は農夫による耕作が必要なことがはっきりします。樹木ついて考えてごらんなさい。木が耕作者のないままにおかれれば実を結ばないでしょ うし、実を結ばなければ役に立ちません。しかし庭師の手入れを受ければ、その同じ実を結ばない木も実を結ぶようになります。そして耕作し、肥料を施し、苦 い実を生じる木に接ぎ木することによって甘い実をつけるようになります。
同じことが動物についてもあてはまります。動物が飼育されると飼い馴らされます。また人も教育されないとけだもののようになり、自然の支配のもとにおかれれば動物よりも低級なものとなり、一方教育されれば天使ともなることを考えてごらんなさい54
(2)心構えと価値バハイの文書には、人間の自然に対する関係を教える精神的な価値観と心構えが幾つか明確に述べられています。これらの事柄は以下に挙げる通りです。
a. 自然への感謝と理解地球は人間の「繁栄」56の「源」55である、という事実は、「人間の栄誉と向上は物質的な富を超えたものである」57ということを理解することにより、適度に調和されます。
眼識力のあるものは全て、地上を歩きながら誠に恥入るのである。何故なら自らの繁栄と富と勢力、向上と進歩と権力の源は神により定められた通り、全ての者の足で踏み付けられている地球そのものだからである。この心理を知るものは全て、あらゆるうぬぼれや高慢や虚栄心から清められ、聖別されているということは疑う余地のないことである…58
汝 らが正当に誇ることができるものが一体何であるかというのか?汝らが誇るのは、汝らが飲み食いする飲食物であるというのか、それとも汝らの宝庫に積み上げ る富であるのか、また汝らが自ら飾り立てる装飾品の多様性と値段であるというのか?もし真の栄光が、そのように滅ぶべき物を所有することにあるとしたら、 汝らがその上を歩いている大地が、汝らよりも誇こらしげに振る舞うべきである―何 故なら大地は全能者の定めに従って、まさにこれらのものを汝らに供給し、与えるのであるから。大地の底深くには、神が定めたまうたことに応じて、汝らが所 有する全ての物が収められているのである。そこで汝らの置かれている状態、そして汝らが誇りにしているものに目を向けるが良い!ああ、もし汝らそれを知り 得るものならば!59
それならば、人間の名誉と歓喜は、物質的富以上のものでなくてはならないことが明らかです。物質的快適さは枝にすぎません。人間の歓喜の根となるものは、 人間の本質を飾る善い属性と美徳です。それらは神聖の現れ、天の恩恵、崇高な感情、神への愛と知識です。あらゆるものに通じる英知、知的な理解、科学的発 見、公正、平等、誠実、慈悲、生来の勇気と堅忍、権利の尊重、契約、誓約の遵守、あらゆる環境における正直さ、あらゆる状況での真理への奉仕、人々の指 導、国家や種族の教育。これこそ人間界の繁栄です。…これこそ永遠の命であり、神々しい名誉です。60
b. 中庸バハイの文書によると、人は「この世とその虚栄」61から超脱するよう奨励されている―とは、(この世への)「愛着」62は、人が神を意識するのを妨げるからです。しかし、これは禁欲主義でもなければ、人生の快楽を否定することでもありません。バハオラは次のように述べています。
も し人が地球の装飾品で身を飾り、その服を着たり、あるいは地球が与えることのできる恩恵に与りたいと望んだとしても、神との間に干渉を入れない限り、その ために害を及ぼされるということはない。何故なら、神は諸々の天であれ、地であれ、あらゆる良きものを、神を真に信じる僕らのために定め給うたのであるか ら。おお人々よ、神が汝らに許し給う美味なる物を食べるがよい、そして神の素晴らしい恩恵を失うな。そして神に感謝し、神を賛美し、真に感謝する者であ れ。63
ここでの基準は、中庸によるものです。すべて事柄において中庸が好ましい。もしある事柄が過度になされたなら、それは邪悪の源となるであろう…64
c. 動物に対する優しさバハオラは、「動物に優しさを示す」65よう人間に要求し、「過度な狩猟」66に対する警告を発しています。前述の言葉について、アブドル・バハは次のように記述しています。
極 端に言うと、神に愛される者らが、慈悲と憐みをもって接すべきものは、同胞だけでなく、むしろ、あらゆる生き物に対して最高の慈愛を示すべきである。何故 なら肉体的なあらゆる面において、また、動物の精神が関わっているところではすべて、動物と人間は同じ感情を持っているからである。しかし、人間はこの真 理を理解しておらず、肉体的な感情は人間だけのものと信じ、動物に対して不当で残忍な態度を示すのである。
し かし実際、肉体的感情に関して一体どのような違いがあるというのだろうか?人間に苦痛を与えようが、動物にそれを与えようが、その感情は同じである。この 二つにはいかなる違いもない。そして実際には、動物の方に一層残酷な仕打ちとなるのである。何故なら人間には言葉があり、不平を申し立てたりすることがで きる。もし傷つけられたなら当局へ訴えて、攻撃するものから身を守ってもらうことができる。しかし動物は口もきけず、その苦痛を表現することもできなけれ ば、当局に訴えることもできない。たとえ、人が動物に多くの苦痛を加えたとしても、動物は言葉を発してその人間から身をかわすこともできず、その人間を法 廷に呼び出すこともできない。故に、汝らが動物に最大の思い遣りを示し、同胞達に対するよりも、動物に優しくすべきことが是非必要なのである。
汝 らの子供達が動物に対して限りなく優しく、愛情深くあるよう、幼い時からしつけるが良い。もし、ある動物が病気であるなら、子供にその病を治療させると良 い。また、動物がお腹をすかしているのなら子供に餌を与えさせ、喉を乾かしているなら子供にその渇きを癒やさせ、疲れているなら休息を取れるようにさせる が良い。
殆どの人間が罪人であるのにくらべ、動物は罪がない。従って、害を及ぼす動物を除いて、全ての動物は最大の愛と優しさを受けて然るべきである。優しくするほど良い。優しさと慈悲は神の御国の根本的原則である。汝らは、このことを注意深く胸に刻んでおくべきである。67
またバハイの文書には、肉を食べることは健康体の必須条件ではないと述べられている。動物の肉を食べる、食べないという事について、…人間は肉を食べなければならない訳ではない。人間はたとえ肉を食べなくても、最高の精力と活力を持って生きることができる…、誠に動物を殺してその肉を食することは、情けと哀れみの態度に少なからず反することであり、もし人が穀物や果実、植物油や木の実(例えばピスタチオやアーモンドなど)で満足できるなら、その方が良いことは疑うべくもない。68
d. 自然の開発バハイの見地からすると、物質的創造は動的で、「ある完全性の段階から次の段階へ」69と進化しています。しかし、物質的創造界には「知力と教育」71が欠如しているため「不完全」70です。それは、より高度なレベルの秩序と美(これらはバハイの教えで高く評価される基準)をもたらすためだけでなく、その肥沃化と生産力増加のためにも、人間による開発を必要とします。アブドル・バハは次のように書いています。
自 然は物質的な世界である。我々はそれに目を向ける時、それが暗黒でかつ不完全であることが分かる。例えば、もしある土地の一画を自然のままに放置するな ら、それは茨やアザミによって覆われてしまうであろう。無用な雑草や野生の草木がはびこり、ジャングルになるであろう。木々は実を結ぶことなく、美と均整 に欠けたものとなるであろう。72
そ して、もし汝が、野原や農場を通過しているときに、花や草木や甘い香りのする草花が豊富に育ち、調和しているのを見れば、これはその農場や庭園が有能な庭 師の手入れの下にあることの証拠なのである。しかし、それが秩序のない不規則な状態にあるのを見る時、そこには、優れた農夫による手入れが欠けているた め、雑草や毒麦を生じてしまったのだろう、と推測できるであろ。73
またアブドル・バハは、耕作の及ぼす貢献について、大地の肥沃化と生産力増強の手段として述べています。も し我々が、この土地の一画を自然の状態に放置し、当初の状態に戻してしまったなら、その土地は茨や雑草の生えた野原となるであろう。しかしその土地は耕作 されることにより、肥えた土地となり、作物をもたらすであろう。耕作されることがなかったなら荒れ地となり、実をもたらす木のない、ジャングルとなるであ ろう。庭園は、庭師の施す手入れと耕作の程度に応じて花を咲かせ、実をならすのである…。74
一粒の麦は、農夫により栽培されると大きな収穫をもたらし、一粒の種は、庭師の手入れによって、大木と育っていくのである。75
自然界は開発される必要がありますが、そのような開発に対する人間の姿勢は、『次代[への]遺産』76を保護することや、バハイ信教の聖書のあちこちにみなぎる、自然の神聖さについての認識や中庸という態度によって適xに和らげられます。例えば、バハオラは、次のように述べています。
神について語られ、神が賛美される地点や家や場所、町や村や山や避難所や洞窟、谷や陸、海や島や牧草地、そのような場所はすべて祝福される。77
e. 農業の重要性バハオラは、「農業には特別な配慮を示すべきである」78と述べています。バハオラは、農業を「人類の発展と世界の再建に役立つ」79活動として述べています。アブドル・バハは次のように断言されています。
共同体の根本的な基盤は農業―土地を耕すここである80アブドル・バハは、農業を「崇高なる科学」81、その実践は「礼拝の行為」82であると述べて、「農業の科学」83に従事することを、女性と男性両方に勧めています。彼は、人がもし「この分野において有能になるなら、数え切れぬ程多くの人々に安楽をもたらす手段となるであろう」84と指摘しています。
万国正義院は、国々の社会経済発展の関連で「世界の生態学的均衡の保持と農業」85の重要性を強調しています。
f. 科学の活用科学は「自然とその神秘を統治するもの。人間が物質的創造界の法則を探究するための唯一の手段」86として描写しています。
…人は、その科学的、知的能力を活して…自 然を自らの望みや使用目的に応じて修正し、変更し、統制することができる。科学は、言わば自然の法則を破るものなのである。例えば、自然の法則によれば人 は、この法則と規則を克服することにより、船舶によって海洋を渡り、飛行機で空高く舞い上がり、潜水艦で海の底まで潜っていく。これは、自然の法則に反す ることであり、自然の主権と統治権を侵すものである。自然の法則と方法、宇宙の隠された秘密や神秘、人間の発明や発見、われわれ人間のあらゆる科学的知識―こ れらのものは、全て、自然の状態のままでは隠され、知られずにいるのである。しかし、人はその知的明敏さにより、目に見えざる段階からそれを探りだし、そ れらを明るみに出し、説明を加える。例えば、自然の神秘の一つは電気である。しかし、人は自然の法則そのものを科学的に打ち破り、そのエネルギーを捕ら え、自らの使用目的のために閉じ込めさえするのである。
端的に言って、人は、この科学的探索という理想的な能力によって、創造物の中で最も崇高な存在、自然を統治する者となるのである…87
アブドル・バハは、科学的尽力を崇高な目標の実現化に結び付けて次のように述べています。この能力は、人間のもつ力の中で最も賞賛されるべきものである。何故ならこの能力を用い、行使することにより、人類はより良くなり、人類の徳はより高められ、神の精神と神秘は明らかにされる…88
そして彼は、この一般的な法を次のように述べています。…それが人類にとって最良の手段であっても、あらゆる機関はそれを誤用する可能性がある。それが適切に使用されるか乱用されるかは、啓発や、能力、信念、正直、献身、大衆の意見を導くという高遠な理想、の度合いの違いによって左右される。89
3.環境保全バハイ信教の経典には、環境保全に関する事項が幾つか述べられています。以下はそのうちの幾つかの要点です。
(1) 資源保存ショーギ・エフェンディは、地球の資源の保存と再生を、「物質世界、および次代[への]遺産[の]保護」90と関連付けています。彼は、“Man
of the Tree” や“World ForestryCharter”(世界森林憲章)などのグループが行っている事業を、「本質的に慈悲的な」91ものであると述べ、そのようなグループの「アフリカ砂漠地帯」93の再生という「崇高なる目的目標」92を称えています。
万国正義院の編纂集「権限と任務」94の中に、「世界の進歩と改善」95、及び「諸国の発展」96が含まれているということは、興味深いことです。
(2) 自然資源の統制バハイの経典では、地球の「想像を絶する程に膨大な資源」97の保存や調査や開発は必然的に、長期的には「世界連邦組織」98の管轄内に置かれるだろうと述べています。そのような組織は「人類の一体性」99の認識に基づくものですが、地球の資源に関して「誰も疑義を差し狭むことができない権限」100を行使し、また経済的、社会的公正を保証するのです。ショーギ・エフェンディは次のように書いています。
バハオラが心に描いた人類の和合は、すべての国家、民族、宗派、階級が密接に、そして永久的に結ばれ、その国家を構成している人々の自治権、個人の自由や独創心が、確実に、完全に擁護される世界連邦の設立を意味します。… このような世界社会では、人間生活における二つのもっとも有力な力である科学と宗教は一致し、協力、調和しながら発展するでしょう。…世界の経済的諸資源は組織化され、原料資源は開発され、十分に利用されて発展し、生産物の分配は公平に調整されるでしょう。
国 家間の争いや憎悪や陰謀はなくなり、人類の敵対心や偏見は、親善、理解、協調にとって代えられるでしょう。宗教上の争いの原因は永遠に除かれ、経済的な障 害や制限は、完全に廃され、階級間に存在する極端な格差も是正されるでしょう。一方における過度の貧窮と他方における所有権の極端な集中は消失します。戦 争によって浪費される膨大な政治的、経済的エネルギーは、発明と技術発展の範囲を拡大するためのあらゆる機関を促進するために捧げられます。それらの機関 では、生産力増大、疾病の撲滅、科学的研究の促進、健康水準の向上、人間の頭脳の鋭敏化と洗練、地球上の未使用でまだ知られていない諸資源の開発、人間の 寿命延長、全人類の知的、道徳的、精神的生活の向上を刺激することなどが研究されるでしょう。
世 界連邦組織は、人類が生命の統合力によって駆られ、進み行く目標です。その世界連邦組織は、全地球を統治し、想像しきれないほど莫大な資源に絶対的権限を 行使し、東洋と西洋の理想を融合、一体化し、戦争の呪いと悲惨から人類を解放し、地球に存在するあらゆる利用可能なエネルギー源の開発に力を注ぐでしょ う。この連邦組織の下では、力は正義のしもべとされ、組織の生命は、人類全般による唯一の神の認識と一つの共通な啓示に対する忠誠心によって支えられるで しょう。101
(3) 環境保全へのアプローチ環境保全・保存は、個人と社会という二つのレベルで対処されるべき事柄である。ショーギ・エフェンディはその代理による手紙で次のように述べている―
私 達は、人間の心を人間の外にある環境から切り離して考えたり、または、これらの内の一つが改革されたならすべてが改善されるだろうと言ったりすることはで きない。人間は地球と切り離せない存在である。人間の内なる生活が環境を形成するのであり、また内なる生活自体も環境により強く影響されるのである。一方 は他方に作用するのであり、人間の生活における永続的な変化というものは全て、これら二つの要因の相互作用の結果なのである。
現 在世界中にある運動の中で人間生活のこの二つの面に注意を向けさせ、両方の改善のために役立つ手段を提供しているものはバハオラの教え以外にはない。これ がバハイ信教の特異な点である。従って、もし私達が世界の幸福を願っているのなら、その教えを広め、また自らの生活の中でも実践するよう努めなければなら ない。それによって、人間の心は変えられ、私達の社会的環境もまた、私達が精神的に成長でき、バハオラの啓示を通して放たれる神の光を十分に反映できるよ うな雰囲気を与えてくれるのである。102
そして、世界の抱えている諸問題の解決について、彼は次のように指摘している―私達は心を変え、持っている概念の全てを構成し直し、活動を新しく方向づける必要がある。人類の救済を確保するためには人間の内なる生活と外的な環境の両方が形成し直されなくてはならないのである。103
万国正義院は、国家に対するレベルでは―「創造主により、この地球に与えられた生態的バランスを保持するよう意図された方策を考案し、採用することにおいて、国々という家族が世界的に協力すること」104を呼びかけ、また次のように述べています―
世 界中の諸国が、全人類の最高の利益を促進することにおいて、全面的に協力するためにバハオラの訓戒を理解し、それに従うようになるまでは、また、我等の地 球が瀕している多くの環境問題に対処するための方法を探し出すために一致団結するまでは、その解決には殆ど進歩が見られないであろう…。105
万国正義院は「世界の野生動物と自然環境」106を救うことに関して、個々のバハイと、バハイ共同体とが果たせる役割について次の様に述べています―
…世界の野生動物と、自然環境を救うための援助としてあなたができる最善のことは、バハオラのメッセージに同胞の注目を引きつけ、バハオラの大業に忠誠を誓うよう助ける努力をすることです。
人 々の心が変えられ、バハオラの教えの見地から一致団結して努力し始めるにつれ、世界の現状を実際に改善するための手段を実行するようになれます。これは、 大規模なバハイ共同体の確立している地域での社会・経済発展事業において既に始まっていることです。勿論あなたは、環境改善に関心ある人々の内であなたが 接触を持つようになった人々を援助することはできます。しかし根本的な解決策は、バハオラがもたらされた解決策です。
この環境問題と、根本的な精神的見地において対処することに加えて、環境改善に関心のある個人や、グループと協力することも奨励されています。種々のバハイ共同体は、次のことをすることによって、環境保全を継続的活動の不可欠な一部とするように求められています―
…我々の共同体生活のリズムと調和していく方法で、環境保全の努力に援助すること(によって)…108全人類の主は、この人類の領域を『エデンの園』、地上の楽園となるようお造りになった。この領域が調和と平和、愛と相互信頼を見出すなら―また、そうしなければならないのだが―それは真の至高の幸福な住いとなり、様々な幸福と終りなき喜びの場所となるであろう。そうしてそこに、人類の優秀性が明らかにされ、『心理の太陽』の光線が四方八方に輝きを放つのである。109
参照文献9,10,16,17,18,25,26,38,39,41,42,67,73,75,82,83,109
「アブドル・バハの著作からの選集」11,12,13,14,27,44,49,50,51,52,53,70,71,72,74,86,87,88アブドル・バハ「世界平和の伝ぱん」
15 万国正義院の代理による、ある個人への手紙