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「アグダスの書」 - 注釈
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Kitab-i-Aqdas : 「アグダスの書」 - 注釈
「アグダスの書」 - 注釈
1. わが衣の甘い香り。¶4
(第4段落の意味。以下¶と数字で、本文中の段落の番号を意味することとする。)

これは、コーランと旧約聖書の中にあるヨセフの話に言及するものである。その話によると、ヨセフの兄弟達がヨセフの衣を彼らの父親であるヤコブに届けた時、ヤコブはその衣を手にして、長い間行方が分からなかった愛する息子のものであることを知った。よい香りのする衣という比喰は、神の顕示者とその啓示を認識することを意味して、バハイの書にしばしば用いられる。バハオラは、ある書簡の中で、自身を、不注意な者らによって極くわずかな値段で売り払われてしまった聖なるヨセフとして描写している。バブは、ガユムール.アスマの中でバハオラを真なるヨセフとして描写し、自分の不実な弟の手が彼にもたらす、忍耐しなければならない苦難について予測している(注釈 190を参照)。同様にショーギ・エフェンディは、アブドル・バハの卓越性により、異母兄弟のミルザ・モハメッド・アリに芽生えた嫉妬心と、ヨセフの優越性が彼の兄弟達の心に火を灯した致命的な妬みとの間に類似点を確認している。

2. われは強大と威力の指もて、選り抜きの美酒の栓を開けたのである。¶5

ワインや他のアルコール性飲料は、ケタベ・アグダスにおいて禁止されている(注釈 144, 注釈 170)。ワインを、たとえば精神的桃惚状態にあることなどに寓意的に用いることは、バハオラの啓示だけでなく、聖書やコーラン、古代ヒンズー教の伝承にも見いだせる。たとえば、コーランでは、清廉なる者らは封印をされた選り抜きのワインを飲むと約束されている。バハオラは、いくつかの書簡の中で、ご自身の啓示一一そのじゃこうの香りで満たされた芳香は全創造物の上に漂った一一を選り抜きの美酒と見なしている。バハオラは、この美酒の栓を開け、そうすることによってそれまで知られていなかった精神的真理を明らかにし、それを飲む者らが、聖なる単一性の光輝を感知し、神の諸々の教典の根本的目的を把握することができるようになしたと述べている。バハオラはある瞑想文の中で、次のように神に請願している。「信者達にあなたの慈悲の美酒を供給し給え、そうすればその美酒が、彼らにあなた以外のすべてのものを忘れさせ、あなたの大業に仕えるために立ち上がらせ、あなたへの愛に確固たらしめるであろう。」

3. われは...必須の祈りを汝らに命じた。¶6

アラビア語では、祈りを意味する言葉がいくつかある。この文節で用いられている言葉はサラートという言葉であるが、それは特定の部類の祈りを指す。そのような祈りは、一目の特定の時間に唱えるよう信者に義務づけている。この部類の祈りを他のものから区別するため、この言葉は「必須の祈り」と翻訳している。バハオラは、「必須の祈りと断食は、神の眼において崇高なる地位を占める」と述べている(質疑応答 93参照)。アブドル・バハは、そのような祈りは謙虚な心と従順性をもって、神の方へ顔をすえ、神への献身を表現することに役立つとし、また、それらの祈りを通して人は神と交わり、神に近付くことを求め、自身が心から愛する御方と会話し、精神的地位に達する、と述べている。この聖句に言及されている「必須の祈り」(注釈 9)は、後にバハオラによって啓示された三つの「必須の祈り」に取って代えられた(質疑応答 63)。現在使用されている三つの祈りの本文と、その唱え方に関する指示は、この本の「ケタベ・アグダスの補充となるいくつかの補足文」に掲載されている。「質疑と応答」の項目の幾つかは、三つの新しい「必須の祈り」に関するものである。個人はこの三つの「必須の祈り」の内の一つを選ぶことができると、バハオラは明示している(質疑応答 65)。その他の規定については、質疑応答 66、質疑応答 67、質疑応答 81、質疑応答 82で解説されている。「必須の祈り」に関する詳細は、「概要と体系化」の第IV部Aの1から17に要約されている。

4. 九つの「ラーカー」。¶6

ラーカーとは、啓示された特定の聖句を唱えることを意味する。それらの聖句には、規定れた、脆く動作や他の動作を伴う。当初、バハオラが信奉者らに命じた「必須の祈り」は、九つのラーカーから成っていた。この祈りは紛失してしまったため、その正確な性質やその唱え方に関する特定の指示については知られていない。(注釈 9参照)。アブドル・バハは、現在義務づけられている「必須の祈り」について述べたある書簡で、「必須の祈りの言葉や動作にはすべて、人の理解を越えた、また文字や巻物の収容できない、諸々の暗示や神秘や英知が含まれている」と指摘している。また、ショー一ギ・エフェンディは、バハオラがいくつかの祈りに関して与えている簡単な指示は、精神的意義を有するだけでなく、人が祈り、瞑想するときに十分集中できるように援助するものでもある、と説明している。

注釈 9
5. 正午と朝と夜に。¶6

現在義務付けられている中位の「必須の祈り」を唱える時間、朝と正午と夜という定義について、バハオラはこれらが日の出、正午、日の入りを指すと述べている(質疑応答 83)。バハオラは、「必須の祈り」を唱える時間は、朝から正午まで、正午から日の入りまで、日の入りから日没後二時間までである、と規定している。さらに、アブドル・バハは、朝唱える「必須の祈り」は、最も早くて、夜明けから唱えることができると述べている。正午を、正午から日の入りまでとして定義することは、中位の「必須の祈り」だけでなく、短い「必須の祈り」を唱える時にも適用される。

6. われは....より多くの数を唱えることを免除した。¶6

バブの宗教制や、イスラム教で求められた「必須の祈り」の条件は、ケタベ・アグダスで規定された九つのラーカーから成る「必須の祈り」に関するものよりも厳しかった(注釈 4参照)。バブはバヤンにおいて、19のラカーから成る「必須の祈り」を、24時間内に、すなわち一日の正午から次の日の正午までの間に一度捧げることを規定した。イスラムの祈りは一日に5回、すなわち、早朝、正午、午後、夕方、そして夜遅く、である。祈りを唱える時間によってラーカーの数は異なるが、一日に合計17のラーカーを唱えることになる。

7. この祈りを捧げたいと欲するときには、わが最も神聖なる面前の 宮居に向かえ。それは._永久の、請々の都市の住人らのための崇敬の点と...定め給うたこの聖なる地点である。¶6

崇敬の的とは、必須の祈りを捧げるときに礼拝者が向かうべき点であり、それはゲブレと呼ばれている。ゲブレの概念は、過去の宗教にもあった。過去の時代には、エルサレムがゲブレとして定められた。また、モハメッドは、ゲブレをメッカに変更した。アラビア語のバヤンにおけるバブの指示は、次の通りである。「ゲブレとは、まことに神が現わし給うであろう御方のことである。彼が休止するまでは、ゲブレは彼の動きと共に動く。」

この聖句は、バハオラによってケタベ・アグダスに引用されており(第¶137段落)、注釈 7の冒頭で抜粋した文の中で確認されている。またバハオラは、「必須の祈り」を唱えるときゲブレの方を向くことは、定められた条件であると指摘している(質疑応答 14 , 質疑応答 67)。しかし、その他の祈りの時には、各自はいかなる方向に向かおうとも構わない。

8. そして真理と発言の太陽が沈んだ後には、われが汝らのために定めた地点へ顔を向けよ。¶6

バハオラは、自分が亡くなった後のゲブレとして、自身が眠る地を定めている。最も神聖なる廟は、アッカのバージにある。アブドル・バハは、その地点を、輝かしい廟、天上の群衆がその周囲を回る場所として描写している。ショーギ・エフェンディは、その代理の書いた手紙で、ゲブレに向かうことの精神的意義について説明するにあたり、太陽の方向へ向かう植物のたとえを用いている。

植物は太陽光線から生命力と成長力を受け取るのですが、ちょうど、植物がその方へ向かうように、私達も祈るとき、神の顕示者であるバハオラの方へ心を向けなければなりません....。私達は...この内なる行為の象徴として、彼のご遺体がこの地上に眠る場所へ...顔を向けるのです。

9. われは、「必須の祈り」の詳細を別の書簡に記した。¶8

当初啓示された「必須の祈り」は、いくつかの英知ある理由でバハオラによって別の書簡に記され(質疑応答 63)、バハオラが生存中信者達に公開されることはなかった。そして、現在使われている三つの「必須の祈り」に代えられていた。バハオラの昇天後間もなく、この祈りの原本は、他の多くの書簡と共に、彼の聖約の最大の破壊者であるモハメッド・アリに盗まれた。

10. 「故人のための祈り」¶8

「故人のための祈り」(「ケタベ・アグダスのいくつかの補足書簡」参照)は、バハイで唯一の、会衆で唱えられる必須の祈りである。それは出席者全員が起立、沈黙し、一人の信者が唱えることになっている(注釈 19参照)。バハオラは、「故人のための祈り」は、故人が大人であるときのみ必須であること(質疑応答 70)、故人の遺体を埋葬する前にそれを唱えるべきであること、そしてこの祈りを唱えるときゲブレに向かう条件はないこと、を明確にしている(質疑応答 85)。「故人のための祈り」のさらに詳しい事柄は、「概要と体系化」の第IV部Aの13-14に要約されている。

11. 聖句の啓示者である神により、六つの特定の文が規定された。¶8

「故人のための祈り」の一部を構成するいくつかの聖句は、アラホ・アブハ(神は栄光に満ちたもう)という挨拶の言葉を六回繰り返すことから成る。そして、それぞれ一回唱えるたびに、特別に啓示された六つの聖句の一つを19回づつ唱えることを伴う。これらの聖句は、バブがバヤンに啓示した「故人のための祈り」と同一のものである。バハオラは、これらの聖句の前に嘆願の言葉を加えている。

12. 毛髪は、汝の祈りを無効にはしない。また、精神が去ってしまっているもの、たとえば骨やそれに類似するものも無効にはしない。汝らは、ビーバー・やりリスやその他の動物の毛皮を着ると同じように、黒てんの毛皮を着ることができる。¶9

いくつかの過去の宗教では、ある動物の毛を身にまとうことや、その他の物を身につけると、祈りが無効になると見なされていた。バブはアラビア語のバヤンで、そのようなことが祈りを無効にすることはないと宣言しているが、バハオラはそれをここで確認している。

13. われは、成人に達したときから祈りと断食をするよう汝らに命じた。¶10

バハオラは、宗教的義務に関する成年の歳を男女とも十五歳と定義している(質疑応答 20)。断食の期間に関する詳細は、注釈 25を参照のこと。

14. 神は….病気や高齢のために虚弱な者についてはこの義務を解かれた。¶10

「必須の祈り」を唱えることや、断食から病気や高齢のために虚弱な者らを免除することについては、「質疑と応答」で説明されている。バハオラは、「健康状態が悪いときに、これらの義務を行うことは禁じられている」と指摘している(質疑応答 93)。バハオラは、この状況において、70歳から高齢と定義している(質疑応答 74)。ショーギ・エフェンディはある質問に対して、70歳に達している人達は、虚弱であろうとなかろうと、免除されていると明確にしている。断食からの免除は、他の部類の人にも与えられており、そのリストは「概要と体系化」の第IV部Bの5に掲載されている。追加の説明については、注釈 20、注釈 30、注釈 31を参照のこと。

15. 神は、清潔な表面ならどこであろうとひれ伏してもよいという許しを汝らに与えたもうた。われはこれに関して、聖典において規定された制限を取り除いたのである。¶10

過去の宗教における祈りの条件には、しばしば、ひれ伏す動作が含まれていた。バブは、アラビア語のバヤンで、ひれ伏すときには額を水晶の表面の上に置くよう、信者らに要求した。同じように、イスラム教でも、イスラム教徒がひれ伏すとき額を置く表面に関していくつかの制限があった。バハオラはそのような規制を廃止し、単に「清潔な表面ならどこであろうと」と規定している。

16. 洗浄用の水が見つからない者は、「最も純粋に在し、最も純粋にまします神の御名において」という言葉を五回繰り返し、それから祈れ。¶10

必須の祈りをする準備として、信者は洗浄を行うようになっている。それは、手と顔を洗うことから成る。もし水がない場合は、特別に啓示された聖句を五回繰り返すよう規定されている。洗浄に関する一般的な説明については、注釈 34参照。水がない時、洗浄の代わりに行うべき手順の規定に関する過去の宗教の前例は、コーランやアラビア語のバヤンに見い出せる。

17. 昼間や夜が長くなる地域では、時計やその他の時間の経過を示す手段で祈りの時間を合わせよ。¶10

これは、昼と夜の長さが著しく異なる極端に北部、または南部に位置する地域に関する言及である。(質疑応答 64 , 質疑応答 103)この規定は、断食にも適用される。

18. われは、汝らに対し、徴証の祈りを唱える義務を廃棄した。¶11

徴証の祈りは、地震や日食のような目然現象一一それらは恐怖感を引き起こし、神の印や行為と見なされた一一が起きたとき述べるよう定められていたイスラム教の特別な必須の祈りである。この祈りを捧げるという義務は、取り消された。その代わりにバハイは、「支配は神と共にあり、神こそは目に見えるもの、見えぬものの主に在し、創造の主にまします。」と言うことができるが、これは必須ではない。(質疑応答 52)

19. .「故人のための祈り」以外の会衆の祈りの慣行を廃棄する。¶12

たとえば、イスラム教の習慣では、モスクでの金曜礼拝は、イマムが先導して行うが、このように、定められた儀式に従って唱える正式な必須の祈りとしての会衆の祈りは、バハイの宗教制では廃止されている。「故人のための祈り」(注釈 1。参照)のみがバハイ法により規定される唯一の会衆の祈りである。これは、出席者のうちの一人が、残りの人の沈黙し、起立した状態にある中で唱える。しかし、この祈りを唱える者に特別な地位が与えられているわけではない。その際、会衆はゲブレの方を向く必要はない(質疑応答 85)。三つの「必須の祈り」は、会衆でではなく、個人で唱えることになっている。その他、多くのバハイの祈りの唱え方には特に規定された方法はない。あらゆる人が、そのような、必須でない祈りを、会合、あるいは個人で好みに合わせて使うことができる。これについては、ショーギ・エフェンデイは、次のように述べている一一

....友らは、このように目分の好みに合わせることができますが...彼らは自分達のやり方が厳格なものになりすぎて、制度化してしまわぬように最大の注意を払わねばなりません。これは、友らが、教えの中に指摘されている明確な道からそれてしまわぬよう、常に銘記しておくべき点です。

20. 神は、月経の期間中にある女性を「必須の祈り」と断食から免除された。¶13

月経中の女性は「必須の祈り」と断食から免除されている。「必須の祈り」のかわりに洗浄を行い(注釈 34参照)、一日の正午から次の日の正午の間に、「光輝と美の主に在す神に栄光あれ」という聖句を95回、繰り返さねばならない。この規定は、アラピア語のバヤンにも前例があり、そこでは、同じような規定がある。過去の宗教制によっては、月経中の女性は儀武を行うには不潔であるとし、祈りと断食の義務を行うことを禁じていた。この、儀式を行うには不潔であるという概念は、バハオラにより廃止されている(注釈 106参照)。万国正義院は、ある義務や責任を免除するというケタベ・アグダスにおける規定は、言葉が示す如く免除であり、禁止ではないことを明確にしている。したがって、望むならば、自分に適用される免除を執行するかどうか決めることができる。しかし、それを決めるにあたり、万国正義院は、信者は英知を行使し、バハオラがこれらの免除を妥当な理由を持って与えていることを知るべきである、と助言している。規定された「必須の祈り」の免除は、最初は、九つのラカーから成る「必須の祈り」に関するものであったが、現在は、それに取って代わった三つの「必須の祈り」に適用される。

21. 旅行中に、もし汝ら安全な場所に止まって休むならば、男性も女性も同じように、捧げていない「必須の祈り」の数に対して、一一・度ひれ伏す。¶14

「必須の祈り」の免除は、「必須の祈り」を唱えることができなくなるような危険な状況に置かれている人に適用される。この免除は、旅をしているときにも、家にいるときにもあてはめられる。それは、そのような危険な状態にあるため唱えることができなかった「必須の祈り」を補う手段を提供する。バハオラは、「必須の祈り」を捧げるための安全な場所が見つかれば、旅の間であろうとも、その祈りを中断することはないと明言している(質疑応答 58)。質疑応答 21、質疑応答 58、質疑応答 59、質疑応答 60、質疑応答 61は、この規定についてさらに詳しく述べている。

22. ひれ伏す動作を終ったなら、足を組んで.¶14

アラビア語のヘイキャロト・トーヒドと言う表現は、「足を組む」と翻訳されているが、統一の姿勢を意味する。これは伝統的に、あぐらをかいた姿勢を意味している。

23. 言挙げよ。神は、わが隠されたる愛を宝を開く鍵となし給うた。¶15
神と、その創造に関してイスラムに有名な伝承がある。

われは隠されたる宝であった。われは知られたいと欲し、よって、われ知られんがために創造物を生じさせた。

この伝承に関する言及や暗示は、バハイの書の至るところに見いだせる。たとえば、バハオラはある祈りの中で、こう示している。

あなたの御名に誉れあれ、おお主よ、わが神よ。かつてあなたは、あなたの古来の存在に包まれた、隠された宝であったこと、あなたご自身の本質の中に秘められた、不可解な神秘であったことを私は証言いたします。ご自身を明示したいと欲され、あなたは大世界と小世界を創造され、人間をすべての創造物の頂点として選び給うた。そして、その人間を、両方の世界の印とされた。おお、最も憐れみ深き、われらの主なる御方よ。あなたは、彼を引き上げ、あなたの創造界のすべてのものの前にあるあなたの玉座を占めさせ給いました。あなたは、彼が、あなたの神秘を明かし、あなたの霊感と啓示の光を持って輝くことを、また、あなたの諸々の名と属性を現わすことを可能にし給うた。彼を通して、あなたは創造界の書の序文を飾り給いました。おお、あなたが作り給いし宇宙の支配者なる御方なるあなたよ。(「バハオラの祈りと瞑想」XXXVⅢ)

同じように、「隠されたる言葉」では、バハオラは、こう述べている。

おお人の子よ!われ汝の創造を愛した。さればこそ、われ汝を創った。されば汝、われを愛せよ。われ汝の名を呼び、汝の魂を、生命の生気もて満たし得んがために。

アブドル・バハは、上記の伝承の注釈として、こう書いている。

おお、愛する御方の道における旅人よ。この聖なる伝承の主な目的は、真理の具現者達を通じて、神の隠蔽と顕現の段階を述べることであることを知るがよい。真理の具現者達とは、神の栄光に満ちた存在の黎明の場なる者らである。たとえば、消えることなき火の炎がつけられて顕示される前に、普遍的顕示者の隠されたる正体においてそれはそれ自身で、またそれ自身の中に、存在するのである。これが、隠されたる宝の段階である。そしてその祝福されし樹がそれ自身で、またそれ自身の中で火をつけられるとき、また、あの聖なる火がその本賓により、その本質の中で燃えるとき、これが、「われは知られることを欲した」という段階である。そしてそれが、限りない諸々の聖なる名前と属性をもって、宇宙の地平線から、依存的世界と場所なき世界の上に輝き出るとき、これは、新しく驚くべき創造の出現を成す。そしてこれが、「かくの如く、われは創造物を生じさせた」という段階と一致するのである。そして聖別されし魂らが、全ての現世的愛着と世俗的状態のとばりを引きちぎるとき、また、聖なる存在の美に視線を向ける段階へと急ぎ、顕示者を認める栄誉を受け、心の中で神の最も偉大なる印の光輝を目撃することが可能になるとき、創造の目的である永久の真理なる御方を知ることが顕現されるのである。

24. おお、最も高遠なる御方のペンよ。¶16

最も高遠なる御方のペン、至上のペン、最も崇高なるペンはすべて、バハオラを指し、神の言葉の啓示者としてのバハオラの機能を意味する。

25. われは、汝らに短期間の断食を命じた...¶16’

断食と「必須の祈り」は、神の啓示された法律を支える二本の柱を成す。バハオラはある書簡の中で、信者らが神に近づく手段として、「必須の祈り」と断食の法律を啓示したことを断言している。ショーギ・エフェンディは、目の出から日の入りまで飲食を完全に控える断食の期間について次のように述べている。

[断食の期間は]....本質的には、祈りと瞑想、精神的回復の期間であり、その間、信者は自身の内面的生活に必要な再調整をし、魂に潜在する精神的力を補給し、活気づけなければなりません。したがって、その意義と目的は根本的に精神的なものです。断食は象徴的であり、利己的・肉欲を控えることを思い起こさせるものです。

断食は、信者が15歳に達すると義務になり、70歳までその義務が続く。断食の法律に関する詳細な規定や、いくつかの部類の人々に与えられる免除に関する規定は、「概要と体系化」第IV部Bの1-6に記されている。断食からの免除に関する解説は注釈 14、注釈 20、注釈 30、注釈 31を参照のこと。19日間にわたる断食の期間は、バハイのアラーの月と一致し、通常3月2日から20日まで。それは閏日の直後に始まり(注釈 27とi注釈 47を参照)、断食の終了後、ノー・ルーズのフィーストにつながる(注釈 26)。

26. そして、その終わりにフィーストとしてノー・ルー一ズを定めた。¶16

バブは新しい暦を導入しており、それは現在、バデイ、またはバハイ暦として知られている(注釈 27 注釈 147)。この暦によると、一日の長さは、日の入りから日の入りまでである。バブは、バヤンでアラーの月を断食月と定めている。そして、ノー・ルーズでその期間を終了とし、ノー・ルーズを神の日と定めた。バハオラはバデイ暦を確認し、ノー・ルーズをフィーストと定めた。ノー・ルーズは新年の最初の日である。それは北半球では、春分の日に一致する。春分の日は通常3月21日になる。バハオラは、このフィーストの日は、太陽が雄羊座を通過する日(春期の昼夜の長さが同じになる時=春分煮)一一たとえそれが日の入り一分前に起きても(質疑応答 35)一一にもたれるべきであると説明している。したがって、ノー・ルー・ズは昼夜の長さが同じになる時刻によって、3月の20、21、22日のいずれかになる。バハオラは、多くの法律の詳細を万国正義院が補充するように託している。その中に、バハイ暦に関する多くの事柄がある。守護者は、ノー・ルーズが催される時間に関する法律の世界的な適応については、春分点を決める基準となる堀球上の特定の地点を選ぶ必要性があると述べている。また彼は、この地点の選択は、万国正義院の決定に委託されると指摘している。

27. 月々を超過する日々を、断食の月の前に置け。¶16

バデイ暦億、365日5時間と5。分余から成る太陽暦の一年に基づいている。一一年は、一一月19日の19ヵ月(計361日)と四つの余分の日(閏年には五日)から成る。バブは、その新しい暦においてどこに閏日が来るかは規定しなかった。ケタベ・アグダスでは、これをアラーの月の直前という固定した位置に来るよう定めることにより、この問題を解決している。さらに詳しい事は、「TheBaha’iWorId」第XV皿巻のバハイ暦に関する部分を参照のこと。

28. われは、これらの日を…「ハ」という文字の現われとして定めた。¶16

アヤミ・ハ(「ハの日々」)として知られる閏日は、「ハの文字」と関連づけられるという特異煮を有している。アブジャド法で数えたアラビア文字の「ハ」の数的価値は5であり、これは閏日の最大可能数と一致する。「ハ」という文字は、聖なる書の中でいくつかの精神的意味を与えられており、その一つは、神の本質の象徴としての意味である。

29. .自制の時期の前にあるこれらの施しの日々。¶16

バハオラは、これらの日々を祝宴や祝典、慈善行為に捧げるよう信奉者らに命じている。ショーギ・エフェンディが代理により書いた手紙では、こう説明されている。「閏日は、もてなしや贈り物の施しなどのために特別に設けられたものです。」

30. 旅人....には断食の義務はない。¶16

信者が断食を免除される旅行の最低期間は、バハオラにより定義されている(質疑応答 22、質疑応答 75)。この規定の詳細は、「概要と体系化」第IV部、Bの5a.i-vに要約されている。ショーギ・エフェンディは、旅をする人は断食から免除されてはいるが、望むならば断食することは自由である。また、旅をしている間というのであり、列車や自動車の中にいる間だけではないことを指摘している。

31. 旅人や病弱者、子供をみごもっている者や授乳中の者にらは断食の義務はない。彼らは、神の恩寵の印として神により免除を受けている。¶16

断食からの免除は、病人や高齢者(注釈 14参照)、月経中の女性(注釈 20参照)、旅人(注釈 30)、妊婦や授乳中の女性が受けている。この免除はさらに、重労働に従事する者にも適用されるが、重労働者は同時に、質素なものを、密かに食べることにより、神の法律と断食の崇高なる地位に敬意を示すよう助言されている(質疑応答 76)。ショーギ・エフェンディは、断食から免除を受ける仕事の種類は万国正義院により定義されることを指摘している。

32. 日の出から日の入りまで飲食を控え、¶17

これは、断食の期間に関する言及である。アブドル・バハはある書簡の中で、断食が飲食を控えることから成っていると述べた後、さらに喫煙が飲むことの一つの形態であることを指摘している。アラビア語では飲むという動詞は、同等に、喫煙にもあてはまる。

33. ...神を信じる者はすべて、毎日.「アラホ・アブハ」を95回繰り返すよう定められている。¶18

「アラホ・アブハ」は、「神は栄光に満ち給う御方」という意味のアラビア語の表現である。それは、神の最大名の一つの形態である(注釈 137参照)。イスラムでは、数多い神の名前の中で最も偉大なものが一つあるという伝承がある。しかし、この最大名の正体は隠されていた。バハオラは、最大名はバハであることを確認している。バハという言葉の様々な派生語も、「最大名」として見なされている。ショーギ・エフェンディの秘書はその代理として、次のように書いている。「最大名」はバハオラの名称です。「ヤー・バハオル・アブハ」は、「おお、諸々の栄光の中の栄光なるお方」という意味の呼びかけの言葉です。「アラホ・アブハ」は、「神は栄光に満ちたもう」という意味の挨拶の言葉です。両方ともバハオラに言及しています。「最大名」の意味は、バハオラが神の「最大名」において現れたこと、っまり、彼が神の最高の顕示者である、ということです。

「アラホ・アブハ」という挨拶は、バハオラがアドリアノープルにて追放生活をしているときに導入されたものである。「アラホ・アブハ」を95回繰り返す前には、洗浄を行わねばならない(注釈 34)

34. 「必須の祈り」を唱える時も...洗浄を実施せよ。¶18

洗浄は、いくつかの祈りと特定の関連がある。それは、三つの「必須の祈り」を捧げる前、毎日「アラホ・アブハ」を95回唱える前、また、月経中の女性が「必須の祈り」と断食の代わりに使う聖句を唱える前である(注釈 2。)。規定の洗浄とは、祈りの準備として手と顔を洗うことを意味する。中位の「必須の祈り」の前の洗浄は、ある聖句を唱えることを伴う(「ケタベ・アグダスの補足書簡を参照」。洗浄が単に洗うという意味を越えた意義を持つということは、「必須の祈り」を唱える直前に入浴していても、なお洗浄する必要がある、ということからも寮しられる(質疑応答 18)。洗浄用の水がないときは、定められた聖句を5回述べなければならない(注釈 16)。これは、水の使用が身体に有害であるときにも適用される(質疑応答 51)。洗浄に関する詳細な法律は、「概要と体系化」の第IV部A.10 a-g、及び「質疑と応答」の項目質疑応答 51、質疑応答 62、質疑応答 66、質疑応答 77,質疑応答 86にある。

35. 汝らは、殺人を犯すことを禁じられている。¶19

人の命を奪うことの禁止は、ケタベ・アグダスの第73段落で、バハオラにより再度述べられている。計画的殺人に対する罰は規定されている(注釈 86)。過失による殺人の場合も、遺族に定められた慰謝料を払う必要がある(第188段落)。

36. 姦通を犯すことを禁じられている。¶19

アラビア語のzinaという言葉はここでは「姦通」と訳されているが、姦淫と姦通の両方を意味する。これは、既婚者が配偶者でない者との間にもつ性的関係だけでなく、結婚外の姦通全般にあてはまる。Zinaの一つの意味に、強姦がある。バハオラが規定している罰は、姦淫に対してだけである(注釈 ”)。その他の性的な罪については、万国正義院の決定に託されている。

37. 陰ロや中傷¶19

陰口、中傷、他人の欠点を執勘に指摘することは、バハオラによって再三にわたりとがめられている。バハオラは「隠されたる言葉」で、「おお実在の子よ!いかにして汝、自身の欠点を忘れ、他の人々の欠点を挙ぐるに急なるを得るや。何人がこれをなすも、わが呪いを受けん。」と明確に述べている。また、「おお人の子よ!汝自身罪人である間は、他人の罪をささやくな。汝この命令に背くならば、呪われん。われこれを証言す。」とも述べている。この強烈な戒めは、バハオラの生涯の最後の書「わが聖約の書」でも、繰り返されている。「まとこにわれは言う。舌は、良きことを述べるためにあるのであり、ふさわしくない話でそれを汚してはならない。神は過ぎたことは許し給うた。これからは、あらゆる者は、相応で適切なことを述べ、中傷やののしりや、人々を悲しませるあらゆることを控えるべきである。」

38. 我は相続財産を七つの部類に分けた。¶20

バハイの遺産相続の法律は、遺書なしの場合にのみ適応する。バハオラはケタベ・アグダスで、あらゆる信者が遺書を書くように指示している(第109段落)。また、別の箇所でも、人は自分の財産を管轄する権利があり、財産をどのように分配し、それらを、バハイであるなしに関係なく、誰に相続させるかを遺書において定めることができると述べている(質疑応答 69)。これに関して、ショーギ・エフェンディの代理により書かれた手紙では、こう説明されている。

....バハイは、遺書において、自分の財産を自分の望むとおりに処分することが許されてはいますが、道徳的に、また良心的に、常に、次のことを覚えておくことが必要です。っまり、遺書を書きながら、富の社会的機能に関するバハオラの原則を支える必要性、その過度な貯蓄や数人の個人やグループに富が集中することを避ける必要性を守るということです。

このアグダスの書の聖句は、遺産相続仁関するバハイの法律について述べたバハオラの長い説明が導入されることになる。これを読むとき、法律は、故人が男性という仮定で書かれていることを覚えておかなければならないが、それは逆も司である。っまり、女性にもあてはまるのである。故人の財産を七つの部類(子供、配偶者、父親、母親、兄弟、姉妹、教師)に応じて分配するという遺産相続のシステムは、バブのバヤンに規定された規定に基づいている。人が遺書なしに死亡した場合の、遺産相続に関するバハイの法律の主な特徴は、次の通りである。

1 故人が父親で、財産に家が含まれる場合、家は長男に渡される(質疑応答 34)。

2 故人に男の子供がいない場合、家の三分の二は、女の子供に渡され、残りは、正義院に渡される(質疑応答 41、質疑応答 72)。この法律が適応される正義院のレベルについては、注釈 42を参照のこと(注釈 44も参照)。

3 財産の残りは七部類の相続人の間で分配される。それぞれの部類が受け取り割合の詳細については、「質疑と応答」の項目5、および「概要と体系化」のIV.c.3a.参照のこと。

4 各部類に、一人以上の相続人がいる場合、財産はその相続人らの間で均等に分配される。これは、男女の別に関係しない。

5 子供がいない場合、その受取分は正義院に帰属する(質疑応答 7、質疑応答 41)。

6 故人が子供を残し、残りの部類の相続人が一部、あるいは全員不在の場合、その不在の相続人の受取分の三分の二は子供達に渡され、三分の一は正義院に渡される(質疑応答 7)。

7 規定された部類の相続人が存在しない場合、財産の三分の二は故人の甥と姪に渡される。甥や姪もいない場合、その受取分は叔父と叔母に渡される。それもいない場合、甥や姪の息子や娘らに渡される。いずれにしても、残りの分、つまり、三分の一は正義院に渡される。

8 前述した相続人が一人もいない場合、財産の全部が正義院に帰属する。

9  バハオラは、バハイでない者はバハイである親や親族から相続する権利はない、と述べている(質疑応答 34)。ショーギ・エフェンディは、代理による手紙で、こう説明している。この制限は、「バハイが遺書なしに死亡し、財産がアグダスで規定されている規則に応じて分配されなければならないときに限って」適応される。「さもなくば、バハイは、遺書を残して自分の望みを記すならば、宗教に関係なく、いかなる人にも遺産を残すことができます。」よって、バハイは遺書を残すことにより、バハイでない配偶者や子供や親族に、遺産を残すことが司能である。

遺産相続に関するさらに詳しい法律は、「概要と体系化」のIV.c.3a-oに要約されている。
39. .兄弟には五分....姉妹には四分¶20

「質疑と応答」は、故人の兄弟姉妹に割り当てられる受取分に関連して、法律の規定内容をさらに詳しく説明する。もし、兄弟または姉妹の父親が、故人と同じ父親であれば、彼らは分配分の全てを受け取る。しかし、父親が異なる場合、彼らは、分配分の三分の二のみを受け取り、三分の一は正義院に帰属する(質疑応答 6)。さらに、故人の相続人の中に親を同じとする兄弟姉妹がいる場合、母親が異なる兄弟姉妹は相続しない(質疑応答 53)。当然、これらの兄弟姉妹も、自分らの父親の財産からはその割当分を受け取る。

40. 教師¶20

アブドル・バハはある書簡で、子供の精神的教育に携わった教師を、子供に永遠の生を授ける精神的父親に例えている。彼は、神の法律において教師が相続人の中に挙げられている理由はこれである、と述べている。バハオラは、教師がどのような条件で相続するか、また割当分がどれだけかを規定している(質疑応答 33)。

41. われは、まだ生まれていない子らの叫びを聞いた時、子供の分け前を二倍にし、残りの分け前を減らした。¶20

バブの遺産相続の法律では、子供らは540株を構成する九分が割り当てられていた。これは、全財産の四分の一以下であった。バハオラは、その割当分を二倍の1080株にし、残り六部類相続人の割当分を減らした。彼はまた、この正確な意味について、さらに、遺産相続配分に関するその意味についても述べている。

42. 正義院¶21

ケタベ・アグダスで正義院に言及するとき、バハオラは、必ずしも、万国正義院と地方正義院とを明確に区別していない。両方とも、この書の中で定められている機構である。彼は通常、正義院と言及し、それぞれの法律が、将来どのレベルの正義院に適応するものか説明される余地を残している。アブドル・バハは、地方会計の収入について書簡の中で、相続人のいない遺産という項目を挙げており、アグダスが遺産に関するこれらの聖句の中で言及している正義院が、地方のそれであることを指摘する結果になっている。

43. 故人が子供を残している場合、しかし他の部類の相続人がいない¶22

バハオラはこう明確にしている。「この規則には、一般的適合と特殊な適合の両方がある。っまり、後者の部類に属する相続人がいないとき、その相続人らの配当分の三分の二は、子供らへ渡され、三分の一は、正義院へ渡されることになる」(質疑応答 7)。

44. われは、故人の住いや衣服を女ではなく男の子供に割り当てた。そして、その他のいかなる相続人にも割り当てていない。¶25

アブドル・バハはある書簡で、故人の住いと衣服は、男性の子孫の筋に残されると述べている。それらは長男に残され、長男がいない場合、次男に残されるのである。アブドル・バハは、これは長子相続制の表れであると述べている。この制度は神の法律において常に支持されてきた。彼は、ペルシャのある信奉者にこう書いている。「全ての神の宗教制では、長男は並ならぬ特異性を与えられてきた。預言者の地位でさえ、長男の生得の権利であった。」しかし、長男に与えられる特異性には、それに伴う義務がある。たとえば、長男は神のために母親の世話をする、他の相続人の必要事を考慮するという道徳的責任がある。バハオラは、この相続法のこの部分の様々な面について明確にしている。彼は、もし家が一つ以上あるならば、主な、最も重要な家は男性の子孫に渡されると指定している。残りの住居はその他の所有物と一緒に、他の相続人らの間で分配されるのである(質疑応答 34)。また、もし男性の子孫がいない場合、主な住居と衣服の三分の二は女性の子供に相続され、三分の一は正義院に帰属するとも述べている(質疑応答 72)。さらに、故人が女性である場合は、彼女が使った衣服は娘らの間で平等に分配されるべきであると述べている。そして彼女の未使用の衣服や宝石や財産は相続人らの間で分配されねばならず、また、使用済みの衣服も、娘がいない場合には相続人らの間で分配される(質疑応答 37)。

45. 故人の息子が、父親の生存中になくなり、子供を残している場合、この子供達は神の聖典に規定されているごとく、父親の取り分を相続する。¶26

この部分の法律は、父親または母親よりも早く他界した息子の場合のみにあてはまる。故人の娘が他界しており、子供を残している場合、娘の取り分は、最も聖なる書において規定されている七つの部類に応じて分配されねばならない(質疑応答 54)。

46. 故人が未成年の子供を残した場合、子供たちの取り分は、信頼できる者に委託されなければならない。¶27

アミンという単語は、この段落では「信頼できる者」と翻訳されている。アラビア語では、主に信頼性という概念に関連して、広い意味を持っているが、信びょう性、忠誠、忠実、清廉、正直、などという意味もある。法的な専門用語では、アミンは信託人、保証人、保管者、保護者、管理者などの意味も有する。

47. 財産の分割は、ホゴゴラが支払われ、借金が清算され、葬儀と埋葬の費用が支払われてから、行われるべき¶28

バハオラは、これら経費支払の優先順位について、まず最初に葬儀と埋葬の経費、個人の借金の支払、次いでホゴゴラ、とされている(注釈 125)(質疑応答 9)。彼はまた、財産をこれにそって処理するとき、支払は、まず残余財産から払い、もしそれで清算することができない場合、故人の住居や衣服から払うべきであるとも述べている(質疑応答 80)。

48. これこそが決して変ることのない隠された知識である。なぜなら、その始まりは九とともにあるから。¶29

アラビア語のバヤンで、バブはその相続の法を、「神の書の隠されたる知識に応じており、その知識とは、変化することも取って代えられることもない知識である」と述べている。また、遺産分配の際の数字は、神が現わし給うたお方を認識する助けになるよう意図されたという意義がある、とも述べている。ここで言及される「九」という数字は、アラビア語の文ではr夕」という文字で表されており、これはアブジャド法のそれに相当するものである(「用語集」参照)。これは、バブによる遺産分配の最初の要素で、そこで彼は、九分を子供の取り分と定めている。九の重要性は、それが最大名、バハ、の数的価値と一致するところにある。これは、「隠され、かつ顕示されたるもの、侵すことも、また近寄ることもできぬほど崇高なる御名」という次の部分で暗示されている。(注釈 33も参照のこと)。

49. .主は、あらゆる町に正義院が設立されると定め給うた。¶30

正義院という機構は、選出された顧問により構成され、社会の地方・全国・国際のレベルで機能する。バハオラは、万国正義院と地方正義院の両方をケタベ・アグダスで定めている。アブドル・バハは、その「遺訓」の中で、「二次的(全国または地域)正義院」を規定し、万国正義院選出において取るべき選挙法の概略を述べている。上に引用した聖句では、地方正義院について言及しており、これは、九人またはそれ以上のバハイが居住する地方ならどこでも選出されることになっている。この目的のための大人という言葉の定義は、守護者により一時的に21歳と定められているが、彼は、それは万国正義院により将来変更可能であると述べている。地方及び二次的な正義院は現在、地方及び全国精神行政会という名称で知られているoショーギ・エフェンディは、これは、一時的な名称であると指摘している。

バハイ信教の地位と目標がより良く理解され、もっと十分に認識されるにつれ....は恒久的で、より適切な、正義院という名称に取って代えられるであろう。現在の精神行政会は、将来、違った様式に変わるだけでなく、バハオラの信教が認識されることにより必要になる力や義務や特権が、現在の諸槻能に追加されるであろう。そしてその認識とは、世界の認められた宗教体系の一つとしてだけでなく、独立した主権を有した国教として認識されることを指す。

50. 「バハ」の数。¶30

「バハ」のアブジャド法による数的価値は九である。万国正義院、全国及び地方精神行政会には、現在、それぞれ九名のメンバーがおり、これはバハオラが規定した最低の数である。

51. 彼らは、人々の中の慈悲深き御方の信託人となるべきである。¶30

万国正義院、全国及び地方精神行政会の全般的権限と義務、そのメンバーの資格条件は、バハオラとアブドル・バハの書、及びショーギ・エフェンディの手紙と万国正義院の解説文の中に述べてある。これらの機構の主な機能は、万国正義院憲法と全国及び地方精神行政会の憲法に概略が述べてある。

52. 共に協議し....¶30

バハオラは、協議を、その信教の根本的原則の一つとして確定し、全ての事柄について主に悟議するよう信者らに勧告した。彼は、道を示す導きのランプであり、理解を授けるものとして、協議を描写した。ショーギ・エフニンデイは、協議の原則はバハイ行政秩序の根本的法律の一つをなすと述べている。バハオラは、「質疑と応答」の項目99で、協議方法の概略を述べ、採決時に満場一致に達することの重要性を強調し、もしそれができないときは過半数意見を採ることを指摘した。万国正義院は、この内容は精神行政会が確立される前に啓示されたものであり、これは、協議に関するバハイの教えについての質間への答であったということを明確にしている。万国正義院は、友らは常時、精神行政会に援助を求めることができ、「質疑と応答」に述べられている手順に従うことを禁止されてはいないと述べている。この方法は、友らがもし望むならば、個人的な問題について協議したいときにも使うことができる。

53. 各地に礼拝堂を建設せよ。¶31

バハイ礼拝堂は、神の賛美のために捧げられている。礼拝堂は、マシレゴル・アズカル(「神の賛美の黎明の場」)の中心的建物をなすが、このマシニレゴル・アズカルは、将来、展開するにつれ、礼拝堂に加えて、社会的・博愛的・教育的・科学的追求のための付属機関を包含することになる。アブドル・バハは、マシュレゴル・アズカルを、世界の最も重要な機構の一つとして描き、ショーギ・エフェンディは、それがバハイの礼拝と奉仕の統合をなすと述べている。この機構が将来発展することを予想してショーギ・エフェンディは、正義院とこれらの付属機関が、苦しんでいる者に安らぎを、貧しい者に糧を、旅人に避難所を、遺族に慰めを与え、無知なる者に教育を施すであろうとみている。将来、バハイの礼拝堂は、あらゆる町や村に建てられるであろう。

54. 主は、可能な者に対しては神聖なる家へ巡礼することを定めたもうた。¶32

この法の対象には、二つの家が含まれている。シラズのバブの家と、バグダッドのバハオラの家である。バハオラは、これらの家のどちらかに巡礼することによって、この聖句の必要条件を満たすことができれると述べている(質疑応答 25、質疑応答 29)。Suriy-i-Haji(質疑応答 10)として知られている二つの書簡で、バハオラは、これらの巡礼のそれぞれに関する特定の儀式を定めている。この意味では、巡礼は、単にこれらの家を訪問するということ以上のものである。バハオラの昇天後、アブドル・バハは、バージにあるバハオラの廟を巡礼の場所として定めた。アブドル・バハは、「最も神聖なる家、つまりバグダッドの祝福された家と、シラーズにあるバブの崇敬された家は巡礼に捧げられており、もし経済的に可能であり、何の障害もなければ、これらの場所を訪れることは義務である」と、ある書簡で述べている。

55. そして、主は、御自身の慈悲としてこの定めから女性を免除された。¶32

バブはバヤンで、経済的に旅のできる信者らは一生に一度、巡礼を行うよう定めた。そして、旅の厳しさから解放するために女性をこの義務から免除すると述べた。バハオラも同じように、女性を巡礼の義務から免除している。万国正義院は、この免除は禁止ではなく、女性は自由に巡礼をすることができると明確にしている。

56. 何らかの職業に従事すること。¶33

男性も女性も、商いや専門職に従事する義務がある。バハオラは、そのような職業への従事を神への崇拝と同じ地位にまで引き上げている。この法の精神的・実務的意義及びその具体化に対する個人と社会の相互責任は、ショーギ・エフェンディの代理仁よる手紙に、こう説明されている。

信者が何らかの職業に従事するというバハオラの命令に関して。教えはこの点について非常に強調しており、特にアグダスのこの点に関する教えはそうです。それは、働く気のない人は、この世界秩序において居る場所がないということを明確にしています。この原則の結果として、バハオラはさらに、物乞いは反対されるのみでなく、社会から完全になくされるべきであると述べています。何らかの職業に必要な技能を習得する機会を与え、その人自身のためと、生計をたてるための両方の目的のために、そのような技能を利用する手段を与えることは、社会を組織することに携わる人々の義務です。あらゆる人は、いかに障害を持っていても、また制限を受けていても、何らかの仕事や職業に従事する義務を課されています。というのは、バハオラによると、仕事は、特にそれが奉仕の精神でなされたときは、崇拝だからです。それは、実利的な目的があるだけでなく、それ自体に価値があるのです。っまり、それはわれわれを神に近づけ、この世での私達に対する神の目的を、私達がよりよく理解することを可能にするからです。ゆえに、誰も、富の相続によって日々の仕事から解放されることはないというのは明らかです。

アブドル・バハは、ある書簡でこう述べている。もし人が、生計を立てることができず、極貧に苦しめられたり、自分ではどうすることもできない状態であったら、裕福な者、あるいは代理人らが、その人に生活のための月々の費用を供給する義務がある....。代理人らという意味は、人民の代表者、つまり、正義院のメンバー達のことである。(物乞いについては、注釈 162を参照のこと。)バハオラの法では、夫だけでなく、妻や母親に対しても生計のための仕事をするよう要求しているのかという質問に対して、万国正義院は、バハオラの命令は、友らが、自分と他人のために益になるような職業に従事するということであり、家政は社会に根本的な重要性を有する立派で、重要な仕事である、と答えている。一定の年齢に達して仕事から隠退することに関して、ショーギ・エフェンディはその代理による手紙で、こう答えている。「アグダスには、それに関して規定がないので、国際正義院が法律を制定しなければならない事柄です」。

57. 手に接吻することは聖典において禁止されている。¶34

過去の多くの宗教制及びいくつかの文化においては、宗教的に重要な人物や卓越した人物の手に接吻することは、それらの人々への敬慕の表現、彼らの権威への服従の象徴として期待されていた。バハオラは、手に接吻することを禁じ、書簡の中で、他の人の前で額ずく習慣や、他人との関係において自分を卑下したりするような行動を咎めている。

58. 他のものから赦免を求めることは誰にも許されない。¶34

バハオラは、人に告白したり、自分の罪の赦免を人に求めることを禁止している。そのかわり、人は、神に許しを請うべきである。ビシャラトの書簡でバハオラは、人々の前でそのように告白することは、人の屈辱と卑下につながる、と述べ、また、神はご自身のしもべらの屈辱を望んではおられない、と断言している。ショーギ・エフェンディはこの禁止の教えを、このような状況で述べている。彼の秘書が代理として書いた手紙には次の様に記されている。

....カトリック教徒が神父に対して行うように、自分の罪や欠点を告白すること、あるいは幾つかの宗派がするように、公の前でそのようなことを行のは禁じられています。しかし、もし人が心から間違いを認めたい時、あるいは性格的な欠点を認めたい時、そしてある人の許し、容赦を求めたいと自然に感じる時には、われわれはそうすることができます。

万国正義院は、罪の告白に関するバハオラの禁止令は、バハイ機構の下で行われる協議の最中に自分自身の違反行為を認めることを妨げるものではないということを明確にしている。同じように、それは、そのような事柄について、親しい友人や職業的なカウンセラーの助言を求める可能性を排除するものでもない。

59. .人々の中には、入口のそばで下駄の間に座す一方、心中では栄誉の座を強く欲している者がいる。¶36

伝統的に、東洋では会合に入る時には下駄や靴を脱ぐ習慣があった。部屋の中では入口から最も離れている部分が上座、栄誉の座とされ、出席している人の中で最も卓越した人が座すことになっている。他の者は、地位の高い順に入口の方へ座っていく。入口のそばには靴や下駄が置かれており、最も卑しい者が座す。

60. また人々の中には内なる知識を....有していると主張する者がいる。¶36

これは、密教的な知識を有すると称し、そのような知識への愛着のために神の顕示者の啓示から遮られてしまう人々のことである。バハオラは、他のところでもこう述べている。「自分の想像が彫り込んだ偶像を崇拝し、それを内なる実在性と呼ぶ者ら、そのような者らは、まことに、異端者と見なされる」と。

61. インドの地に身を隔離し、神が合法的と定めたもうたものを拒否し、禁欲生活や難行・苦行を自らに課し....者らが、何と多くいたことか。¶36

これらの聖句は、修道院生活と苦行を禁止するものである。「概要と体系化」IV.D.Ly.iii-ivを参照のこと。「楽園の言葉」でバハオラは、これらの規定についてさらに詳しく述べている。「隠遁生活や苦行は、神の面前において受け入れられないことである」と。また彼は、そのような生活に関わる者らに、「喜びと輝きをもたらすことを守るがよい」と呼びかけている。さらに、山中の洞窟に住いを持つものら、夜墓地へ行ったりする者らにそれらの習慣を捨てるよう述べている。また彼は、神が人類のために定め給うたこの世の恩恵を自ら奪ってしまわぬように命じている。ビシャラトの書簡では、僧や牧師らの敬けんな行為を認めながらも、バハオラは、彼らに隠遁の生活を諦め、自らの歩みを開かれた世界へ向け、自らと他人との益になるようなことに勤しむよう呼びかけている。彼はまた、神について述べるものを生じさせるために、結婚することを彼らに許可している。

62. 一千年が完全に経過する前に、自らを神より下された直接の啓示の顕示者と称する者は....¶37

バハオラの宗教制は次の神の顕示者が来るまで続くが、そのような顕示者の到来は少なくとも一千年が完全に経過するまでは起こらないのである。バハオラはこの聖句において、その明らかな意味以外の何ごとも考慮せぬよう警告している。そしてある書簡で、この一千年のそれぞれの年はコーランによると12ヵ月、バヤンでは毎月19日の19ヵ月からなると記している。1852年の10月、テヘランのシア・チャールでバハオラが啓示の暗示を受けた時が、彼の予言者の使命の誕生を意味する。そこでそれはまた、次の神の顕示者が出現するまでに経過しなければならないとされる一千年または、それ以上という計算の始まりを意味する。

63. これは、われがイラクに住んでいたとき、その後は神秘の地にいたときに、汝らに出した事前の警告のことである。そして、今は、この輝かしき場所からその警告を出している。¶37

神秘の地はアドリアノープルを指し、この輝かしき場所はアッカを指す。

64. 人々の中には、学識により傲慢になり、....自分の後ろについてくる下駄の音を聞くと、....その自尊心が大きくなる者がある。¶41

東洋では、宗教的指導者の信奉者らは、その師の一、二歩後ろを歩く習慣があった。
65. ニムロデo¶41

この聖句で言及されているニムロデは、ユダヤ教の伝承にも、イスラム教の伝承にも出てくる。ニムロデはアブラハムを迫害した王で、後に傲慢の象徴になった。

66. アグサンo¶42

アグサン(Ghusnの複数系)は「枝」という意味のアラビア語である。この言葉は、バハオラが男性の子孫を指して使った。これは、基金の処理をするだけでなく、バハオラ(注釈 145)とアブドル・バハ没後の権限後継者にも特別な意味を有する。バハオラは聖約の書で、長男のアブドル・バハを聖約の中心、及び信教の長に指名した。そしてアブドル・バハは、遺訓で、長孫のショーギ・エフェンディを信教の守護者、かつ長として指名した。ゆえに、アグダスのこの聖句は、選ばれしアグサンの後継を予期しており、守護者の機構と守護者の筋の断絶を予期していることになる。1957年、ショーギ・エフェンディの逝去はこの聖句で言及されている状況をもたらした。つまり、アグサンの筋は、万国正義院が設立される前に途切れてしまったのである(注釈 67)。

67. バハの人々に帰属する。¶42

バハオラは、アグサンの筋が万国正義院の設立の前に途絶える可能性を述べている。彼は、そのような状況下では基金はバハの人々に帰属すると定めている。バハの人々は、バハイの書では様々な意味で用いられている。この場合バハの人々とは、彼の許可なしに語ることなく、この書簡において神が定めたことに応じて判断する者らとして描写されている。1957年、守護者が亡くなると、神の大業の翼成者らは、1963年に万国正義院が設立されるまで大業の業務を指揮した(注釈 183)。

68. 剃髪してはならない。¶44

いくつかの宗教の伝統では、頭を剃ることが好ましいとされている。頭を剃ることはバハオラにより禁じられており、スーリ・ハージにおいて、シラーズの聖なる家へ行く巡礼者は頭を剃らねばならないとされる規定は、ケタベ・アグダスのこの聖句により取って代えられていることを明確にしている(質疑応答 10)。

69. .髪を耳たぶよりも越えて伸ばすことは似つかわしくない。¶44

ショーギ・エフェンディは、剃髪の禁止と異なり、髪を耳たぶより伸ばすことを禁止するこの法律は、男性のみに適用されることを明確にしている。この法律の適応は万国正義院の説明を必要とするであろう。

70. 盗人に対しては追放と投獄が定められている。¶45

バハオラは、違反行為の重大さに応じて罰を決めることは、正義院に委託されていると述べている(質疑応答 49)。窃盗に対する罰則は将来の社会の状態を意図しているものであり、それの補足と、適応は万国正義院によりなされる。

71. 三回目の犯行におよんでは、その者の額に印をつけて、それによって彼がそうであることが確認され、神の諸々の市や国に受け入れられないようにする。¶45

盗人の額に刻まれる印は、人々にその者の性癖について警告する目的を果たす。印の性質に関する詳細や、印がどのようにつけられるか、どれくらいの期間つけるか、どのような条件下でそれが削除されるか、窃盗の度合いについてなどは、法律が適応されるときに決定するよう、バハオラは万国正義院の手に委ねている。

72. 金や銀の器を使いたいと思う者はそうするがよい。¶46

バブはバヤンにおいて、金や銀でできた器具の使用を許可し、イスラム教によるそれらの使用の禁止を廃止している。これは、コーランの明白な法令に基づくものではなく、イスラムの伝承に基づくものである。バハオラはここで、バブの規定を確認しているのである。

73. 食事をする時に、椀や皿の中に手を突っ込まぬよう注意せよ。¶46

この禁止令は、ショーギ・エフェンディにより、「手を食物の中につっこむ」ことと定義されている。世界の多くの地域では、共同の鍋から手で取って食べることが習慣であった。

74. 汝ら、優美にかなった作法を身につけよ。¶46

これが、洗練性や清潔性の重要性に言及する聖句の中で初めて出てくるものである。アラビア語原典の言葉は”litafat”で、ここでは、洗練性と訳されており精神的暗示と身体的暗示の両方を含む広い意味がある。たとえば、優雅、優美、清潔性、丁重さ、礼儀正しさ、物腰の柔らかさ、細やかさ及び上品さ、繊細さ、洗礼された、聖別された、純粋などである。ケタベ・アグダスの中の様々な聖句の文脈に応じて、それは洗練性、または清潔と訳されている。

75. 神の大業の黎明の場である御方は、神の最高の不過誤性において、仲間はない。¶47

バハオラはイシュラカトの書簡で、最大の不過誤性は神の顕示者に限られた権限であると述べている。質疑応答 集の第45章には、アグダスのこの聖句に関するアブドル・バハの説明がある。彼はこの章で、本質的な不過誤性は神の顕示者から切り離せないことを他の事柄とともに強調し、「彼らから流出するものは全て、真実と同一であり、実在性に一致」し、また、「彼らは、以前の法律の下陰にはない。彼らが語ることは全て、神の言葉であり、彼らがなすことは全て、清廉なる行為なのである」と述べている。

76. すべての父親には、読み書きの技術を息子や娘に指導する義務がある。¶48

アブドル・バハは書簡の中で、全ての子供を教育する親の責任について要求しているだけでなく、「娘の訓練と教養は、息子に対するものよりも必要度が高い」とはっきり述べている。なぜなら、女子はやがて母親になり、母親は新しい世代の最初の教育者になるからである。もしも、家族がすべての子供を教育することができなければ、娘に優先権が与えられるべきである。教育された母親を通して、知識の恩恵は、最も効率良く、かつ速やかに社会へ広めることができるからである。

77. 神は姦通を犯す者、男性にも女性にも、罰金を課したまい、罰金は万国正義院に支払われることとした。¶49

「姦通」と訳されているこの言葉は、既婚者同士、あるいは未婚者同士の間での、非合法的な性交を意味する(この用語の定義については、注釈 36参照のこと)が、ア.ブドル・バハは、ここで規定されている罰は、未婚者同士の性交に対する罰であると述べている。彼は、既婚者が犯した姦通に対する罰については、万国正義院が決定すると指摘している。(質疑応答 49も参照のこと)。アブドル・バハは、ある書簡で、道徳律の違反に関するする精神的・社会的意味のいくつかについて言及しており、ここで述べられている罰は、そのような行為が神の眼に恥ずべきものであることをこの法律によって全ての人に知らしめること、また、違反が確立され罰金が課された場合、その主な目的は違反者の暴露であることを述べている。そうすることにより、違反者が恥じ、社会の眼に不名誉を感じることである。この聖句で言及されている正義院は地方正義院のことで、現在、地方精神行政会として知られている。

78. 金9メスガルであり、もし違反を再び犯したら、二倍になる。¶49

「メスガル」とは、重量の単位である。中東で伝統的に用いられてきた1メスガルは、24ナクーズに相当する。しかし、バハイが用いるメスガルは、バヤンの規定によると19ナクーズである(質疑応答 23)。9メスガルは、32775グラム、または1 05374金オンスに相当する。罰金の適用に関して、バハオラは、次の罰金はその前の罰金の二倍になる、と述べている。こうして、課される罰金は等比数列で増していく。この罰金の賦課は、将来、万国正義院がこの法律を補足し適用するようになる社会を対象としている。

79. .われは、汝らが音楽や歌を聞くことを合法とした。¶51

アブドル・バハは、「東洋のいくつかの国では、音楽はとがめらるべきものと考えられている」と書いている。コーランには、これに関して特定の指導はないが、イスラム教徒には、音楽を聞くことを非合法とする者もいるし、ある制限内で、特定の条件の下に音楽を寛容する者もいる。バハイの書では、音楽を賞賛する聖句が多い。たとえば、アブドル・バハは、歌や、演奏は、魂と心のための精神的食物であると述べている。

80. おお、正義の紳士らよ!¶52

万国正義院のメンバーは男性に限られるが、二次的及び地方正義院(現在全国及び地方精神行政会と呼ばれている)のメンバーは男女とも被選挙権がある、とアブドル・バハとショーギ・エフェンディの書に説明されている。

81. 人に怪我をさせたり叩いたりすることに対する罰則は、その傷害の程度による。それぞれの程度に応じて、審判の主はいくらかの賠 償金を規定された。¶56

バハオラは、罰の程度は傷害の程度によると述べているが、各々の違反行為に対する罰の程度については、詳しく記していない。これらのことを決定する責任は、万国正義院に委託されている。

82. まことに汝らは、毎月一回もてなしをなすよう命ぜられている。¶57

この命令が、毎月一回バハイの祭典を開くことの基盤となっており、これが、19日毎のフィーストの教えを構成する。アラビア語のバヤンでバブは、信者らが19日毎に集まって、もてなしと友好の精神を示すよう呼びかけている。バハオラも、それをここで確認し、そのような催しが有する統合力を指摘している。バハオラの後、アブドル・バハとショーギ・エフェンディは、この教えの機構的な意味を徐々に展開させていった。アブドル・バハは、これらの会合の精神的、祈祷的な重要性を強調し、ショーギ・エフェンディは、フィーストの祈祷的・社会的局面を説明する一方でその会合の行政的要素を展開させ、フィーストを体系的に機構化するにあたって、ニュースやメッセージを交換するなど、バハイ共同体の業務に関する協議の時間を設けた。この教えが義務的なものであるかどうかという質問に対して、バハオラは、義務的ではないと答えている(質疑応答 48)。ショーギ・エフェンディは、その代理による手紙の中で、さらに以下のように述べている。 19日毎のフィーストヘの出席は義務ではありませんが、非常に重要です。あらゆる信者は、そのような催しに出席することを義務や特権として考えるべきです。

83. もし汝ら、捕獲用の動物や鳥を使って狩猟をするならば、それらを捕獲に出すときに、神の御名を呼びかけるがよい。そうすれば、それらが捕まえてくるものが仮に死んでいたとしても、汝にとって合法的なものとなる。¶60

この法律により、バハオラは狩猟に関する過去の習慣や宗教的規制を極めて簡素化している。彼は、弓矢や銃などの武器を用いた狩猟もこの規制の中に含めているが、すでに死んでいる獲物を食べることを禁止している(質疑応答 24)。

84. 過度に狩猟せぬよう...。¶60

バハオラは狩猟を禁止してはいないが、過度の狩猟に対しては警告を出している。やがて万国正義院が、過度な狩猟とは何かを考慮すべき時がくると考えられる。

85. 神は、他人の財産に対する権利をわが親族に授けてはおられない。¶61

バハオラの親族に親切を示すという教えは、彼らに他人の財産を分け与えるということではない。これは、シーア派イスラム教の慣習に関する言及であり、そこでは、モハメッドの直系の子孫はある税金の一部を受け取る権利がある。

86. あるものが、意図的に家に放火したならば、彼自身も焼かれなければならない。また、故意に人の命を奪ったならば、彼自身も殺されねばならない。¶62

バハオラの法律によると、殺人と放火には死刑という規定があり、別の罰として終身刑がある(注釈 87参照)。アブドル・バハは書簡の中で、復讐と罰の違いを述べている。彼は、個人は復讐する権利はなく、復讐は神の眼において軽蔑されること、また刑罰の動機は復讐ではなく、犯された違反に対する罰則であることを述べている。彼は「質疑応答 集」で、社会のメンバーを保護し、社会の存在を擁護するために、犯罪人を罰することは社会の権利であると断言している。この規定に関してショーギ・エフェンディは、その代理の手紙で次のような説明をしている。

バハオラは、殺人に対する罰は死刑であるとアグダスで述べています。しかし、彼は、別の方法として終身刑を下すことを許可しています。どちらも、彼の法律に応じた刑です。われわれの中には、自分の限られたビジョンとは異なるこの英知を分らない人があるかも知れません。しかし、われわれは、彼の英知と慈悲と正義が完璧であり、全世界の救済のためのものであることを知っているので、それを受け入れなければなりません。もし、人が誤って死刑に処されたとしても、われわれは、この人間的な不正義について、次の世で全能なる神がその人を一千倍も償なわれるということを信じられないでしょうか?まれに、無実な人が罰されることがあるからといって、健全な法律を捨て去ることはできません。

殺人と放火に関するバハイの法律は未来社会を対象としたもので、バハオラはその詳細を記していない。違反の程度の判定、酌量すべき状況かどうかの判断、規定されている罰のうちどちらを規範とするかなど、法律の様々な詳細は法律が施行されるときの状況に応じて万国正義院が決定することである。罰の執行法も、万国正義院が決定することになっている。放火に関しては、どのような家が焼けたのかによる。明らかに、空き倉庫が焼けたのと、子供で一杯になった学校の建物が焼けたのとでは、大きな違いがある。

87. 放火犯と殺人犯を終身禁固刑に処すことは聖典の規定で許されている。¶62

ショー・ギ・エフェンディは、アグダスのこの聖句に関する質問に対して、死刑は許されているが、そのような罰が非常に和らげられる代法として終身刑があることを述べている。彼は、「バハオラは私達に選択の余地を与えています。ゆえに、彼の法律により与えられた制限の中で、我々の判断を行使できるようにされている。」と述べている。バハイの法のこの局面の適用に関して特定の指導がない場合、将来、万国正義院が法律を制定するように託されている。

88. 神は、結婚を汝らのために規定された。¶63

バハオラはある書簡で、神はこの法律を確立するにあたり、結婚を幸福と救済の要塞とされた、と述べている。「概要と体系化」IV.C.1 a-oには、結婚と結婚が許可される条件(質疑応答 3、質疑応答 13、質疑応答 46、質疑応答 50、質疑応答 84、質疑応答 92)、婚約者に対する法(質疑応答 43)、寡婦結納金の支払(質疑応答 12、質疑応答 26、質疑応答 39、質疑応答 47、質疑応答 87、質疑応答 88)、配偶者の不在が長期化する場合(質疑応答 4質疑応答 27)、その他さまざまな状況(質疑応答 12質疑応答 47)に関するアグダスと「質疑と応答」の要約と統合がある。(質疑応答 88, 質疑応答 89, 質疑応答 90, 質疑応答 91, 質疑応答 92, 質疑応答 93, 質疑応答 94, 質疑応答 95, 質疑応答 96, 質疑応答 97, 質疑応答 98, 質疑応答 99も参照のこと)

89. .二人より多くの妻を取らぬよう注意せよ。一人の伴侶を選んで満足するならば、夫も妻も、平穏のうちに生きるであろう。¶63

アグダスの本文は重婚を許司しているように見えるが、バハオラは、平穏と満足は一夫一婦制から来ると助言している。別の書簡で彼は、それぞれが自分自身と相手に慰めをもたらすように振る舞うことの重要性について概略を述べている。バハイの書の権威ある解釈者であるアブドル・バハは、実際アグダスの本文では、一夫一婦制が命じられていると述べている。彼はこれについて、次の書簡を含めたいくつかの書簡で説明している。

汝、神の法律では、一夫多妻制は許されていないことを知れ。一人の妻で満足するように明確に規定されているからである。妻をもう一人めとることは、二人の妻の間で公平と正義を守ることが条件とされている。二人の妻に対して正義と公平を守ることは全く不可能である。重婚を、不可能な条件に依存させているということが、その絶対的禁止の明確な証明である。ゆえに、男性が一人以上の妻を持っことは許可されていないことになる。

一夫多妻制は、人類にとって非常に古くからあった習慣である。一夫一婦制は、神の顕示者たちにより徐々に導入されていった。たとえば、イエスは、一夫多妻制を禁止しはしなかったが、(未婚者間の)姦通の場合を除いて、離婚を廃止した。モハメッドは妻の数を四人までに制限したが、正義を守ることを条件として妻を複数持つことを許可し、また離婚の法を再導入した。バハオラは、イスラム教の環境で教えを啓示したが、英知の原則と彼の目的を展開させるに応じて、一夫一婦制を徐々に導入された。彼は、自分の書の解釈者を信者のために残すことによって、ケタベ・アグダスで二人の妻を持っことを外見的に可能にしながら、後に、アブドル・バハが、この法律の意図は一夫一婦制を施行することであったと説明する条件を支持したのである。

90. 女中を雇いたい者は、礼節を持ってそうすることができる。¶63

バハオラは、男性が家政のために女中を雇うことは許されると述べている。シーア派イスラム教では、雇い主がその女中と結婚契約を結ばない限り、雇用は許可されないことであった。この聖句で言及されている奉仕とは、他の階級のしもべ一一老若関係なく一一によって、俸給と交換になされる奉仕のみであると、バハオラは強調している(質疑応答 30)。雇い主は女中仁対して、いかなる性的権利も持たない。その女中は、望むときに夫を選ぶことができる。女性を買うことは禁止されているからである(質疑応答 30)。

91. これは、汝らに対するわが命令である。自分自身のために、それに確固としてっかまれ。¶63

結婚はケタベ・アグダスにおいて命じられてはいるが、それは義務ではないということをバハオラは明確にしている(質疑応答 46)。ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、結婚は決して義務ではないと宣言しており、結婚生活を送るか、独身生活を送るかは、最終的には個人の決めることであるとも断言している。ある人が、配偶者を見つけるまでに長い間待たねばならない、あるいは、生涯独身のままでいなければならないとしても、人生の目的一一根本的に精神的なもの一一を果たせないということにはならないのである。

92. 結婚について双方の両親の許しを条件とした。¶65
ショーギ・エフェンディは、代理による手紙で、この規定についてこう書いている。

バハオラは、バハイの結婚には生存中の親全員の同意が必要であるとはっきり述べています。これは、親がバハイであろうとなかろうと、あるいはその両親が何年も離婚したままであっても適用されます。バハオラは、この偉大なる法律を、社会構造を強化し、家庭の絆を密接に結び付けるため、そして、子供達の心の中に、自分たちに生命を与え、その魂を創造者に向けての永遠の旅路へ送り出してくれた人たちに対する感謝と敬意の気持ちを植え付けるために、規定されたのです。

93. 結納金の支払いなしには結婚は成立しない。¶66

「概要と体系化」Iv.c.1 j.i.一v.には、結納金に関する主な規定が要約されている。これらの規定の起源はバヤンにある。結納金は、花婿から花嫁に支払われる。都会に住む者は純金で19メスガル、村に住む者は銀で19メスガルと定められている(注釈 94)。バハオラは、結婚の際に花婿が結納金全額を払えない場合、花嫁に約束手形を渡すことが許可されると述べている(質疑応答 39)。バハオラの啓示の到来と共に、多くの馴染みある概念や慣習や制度が再定義され、新しい意味合いを持たらされた。そのひとつが結納金である。結納金の制度は多くの文化において非常に古いもので、多くの形態がある。いくつかの国ではそれは花嫁の親から花婿に対して払われるし、ある国では花婿から花嫁の親に対して払われ、これはbridepriceと呼ばれている。いずれもの場合も、金額は相当なものである。バハオラの法律はそのような変形を全てなくし、結納金を、花婿がいくらかの限られた価値のある贈り物を花嫁に渡すという象徴的な行為に変えている。

94. 都会に住む者は純金19メスガル、村に住む者は銀19メスガルと定められている。¶66

バハオラは、結納金の決定基準を、花嫁ではなく、花婿の住居のある場所としている(質疑応答 87質疑応答 88)。

95. この金額を増加させたい者は、95メスガルを超えることは禁ぜられる....聖典によると、もし人が最低金額で満足するならその者にとって一層良いことである。¶66

結納金に関する質問に対して、バハオラはこう述べている。

都市や村に住む者に関してバヤンで啓示されていることが承認されており、これを実行すべきである。しかし、ケタベ・アグダスでは最低のレベルについて言及している。その意図することは銀19メスガルであり、これはバヤンにおいて村に住む者に規定されている。双方が合意すれば、これが神にとってより好ましいことである。全ての者の安楽を促進し、人々の間に調和と結合をもたらすことが目的である。ゆえに、これらの事柄を考慮すればするほど、良いことである....バハの人々は互いに、最高の愛と誠実さを持って交わり、互いを扱わねばならない。彼らは、全ての者の利益、特に神の友らの利益に注意を払うべきである。

アブドル・バハはある書簡で、結納金を決めるための規定のいくつかをまとめている。以下の引用で言及されている支払の単位は「ヴァヒード」である。1ヴァヒードは19メスガルに等しい。彼はこう述べている。

都会に住む者は金で払い、村に住む者は銀で払わねばならない。それは、花婿のもつ経済的手段に依存する。もし彼が貧しければ、1ヴァヒードを払う。中位であれば2ヴァヒード払い、結構裕福であれば3ヴァヒード払う。さらに富裕な者は4ヴァヒード、非常に金持ちであれば5ヴァヒード払うのである。それは、まことに、花婿と花嫁、そして彼らの親の間の同意に関する事柄である。同意されたことを実行すべきである。

この法律の適用に関する質問は、法律を制定する権限のある万国正義院に照会するよう、この書簡の中でアブドル・バハは信者らに奨励している。彼は、「聖なる原典において明白に述べられていない二次的な事柄について法律を制定するのは、この機関である」と強調している。

96. 神のしもべが旅をする時は、妻に対して家に帰る時を定めなければならない。¶67

もし、夫が帰る期日を妻に告げずに家を出た場合、そして、妻に彼からの便りがなく、消息が断たれた場合、バハオラはこう述べている。もし夫が、ケタベ・アグダスに定められた法律を知っているならば、妻は丸1年待った後、再婚してもよい、と。しかし、もし夫がこの法律について知らないのであれば、妻は夫の知らせが届くまで待たねばならない(質疑応答 4)。

97. 妻は九カ月間待つ義務がある。その後は、別の男性を夫として迎えても何の妨げもない。¶67

夫が、決められた期日に帰ることができなったり、遅延することを妻に知らせることができなかったりした場合、妻は九カ月待たねばならず、その後、妻は再婚することができるが、さらに長く待てればより好ましい(バハイ暦については注釈 147)。バハオラはそのような状況においては、夫の死か、殺害の知らせが妻に届いた場合、妻は再婚する前に九カ月待たねばならない(質疑応答 27)。夫の死後九カ月待つのは、夫が家を開けている間に死んだ場合であり、家にいるときに死んだ場合にはあてはまらない、とアブドル・バハはある書簡でさらに明確している。

98. 彼女は賞賛さるべき道を選ぶべきである。¶67
バハオラは、賞賛さるべき道を辛抱の行使と定義している(質疑応答 4)。
99. .二人の公正な目撃者¶67

バハオラは、証人に関して、正義の基準は人々の間でのよい評判であり、証人はバハイである必要はないと述べている。「信仰や信条に関わらず、神の全てのしもべの証言は、神の玉座の前で受け入れられるからである。」(質疑応答 79)

100. 夫と妻の間に恨みや嫌悪感が起きたならば、夫は妻と離婚すべきではなく、一年間、辛抱強く待つべきである。¶68

バハイの教えでは離婚は強くとがめられている。しかし、もし夫婦の間で互いに敵意や反感が生じた場合、1年経過した段階で離婚が許可される。この辛抱の一年の間、夫は妻と子供のために経済的な援助を施す義務があり、二人は問題を調停するよう促される。ショーギ・エフェンディは、夫と妻のどちらかが離婚を求めることが絶対的に必要であると感じるならば、どちらもそれを求める同等の権利があると述べている。バハオラは「質疑と応答」で、辛抱の一年とその実施(質疑応答 12)、それが開始される日(質疑応答 19質疑応答 40)、調停の条件(質疑応答 38)、証人と地方正義院の役割(質疑応答 73及び98)に関する問題について説明している。証人に関して万国正義院は、今日、離婚の証人の義務は精神行政会が行うと説明している。離婚に関するバハイの詳細な規定は、「概要と体系化」IV.C.2a-iに要約してある。

101. 妻に三重の離婚を言い渡した場合に行うよう定められていた以前の手続きを、主は...禁止し給うた。¶68

これは、コーランに述べてあるイスラム教の法律に関連するもの。イスラムの法律では、男性が自分の一度離婚した女性と再婚したい場合、ある条件下では、その女性がその間に他の男性と結婚し離婚していなければならないと定めている。バハオラは、ケタベ・アグダスではこの法律が禁止されたと述べている(質疑応答 31)。

102. 妻と離婚した男性は、各月が経過したなら、互いへの愛情と同意があり、彼女が別の男性と結婚していなければ、その女性と再婚することができる....彼女の状況が変化しない限り....¶68

ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、「各月が経過した」との意図は、制限を課することではなく、離婚した二人はどちらかが別の人と結婚していない限り再婚できるということである、と述べている。

103. 精液は不浄でない。¶74

多くの宗教的伝統やシーア派イスラムの習慣では、精液は儀式的に不浄であるとされた。バハオラはここでこの概念を取り消している。注釈 106を参照のこと。

104. 洗練さの綱にしっかりとっかまれ。¶74

アブドル・バハは、純潔と神聖さ、清潔、洗練さが人間の高尚な状態と、人間の内的実在の成長に及ぼす効果について述べている。また、「純潔で汚れひとつない身体を持っことは、人間の精神に影響を及ぼす」と述べている。(注釈 74参照)

105. 水の持つ三つの要素のどれにおいても変化をきたしていない水で、汚れた物をすべて洗え。¶74

この聖句で述べられている三つの要素とは、水の色、味、においである。バハオラは、清らかな水について、またそれがどの時点で使用不適切となるかについて、追加の教えを述べている(質疑応答 91)。

106. 神は...様々な物や諸民族が汚れたものであると見なしてきた不浄の概念を廃止された。¶75

いくつかの部族社会や、過去の宗教制の宗教共同体で、理解され実施されている儀式的不浄性はバハオラによって廃止されている。バハオラは、「全創造物は、純化の海に浸された」と、その啓示で述べている。(注釈 12、注釈 20 注釈 103参照)。

107. レズワンの最初の日。¶75

これは、バハオラとその同伴者らが、バグダッド市外にあるナジビイの園一一後にバハイの人々にレズワンの園と呼ばれるようになった一一に到着したことへの言及である。それは、1863年4月、ノー・ルーズから31日後のことで、バハオラがご自分の使命を同伴者らに宣言したことを意味する。ある書簡でバハオラは、自分の使命宣言を最高の幸福の日として言及し、レズワンの園を、「彼が、全てに慈悲深き者という彼の名の光輝を全創造界に放った場所」として描写している。バハオラは、追放先イスタンプールヘ発つ前の12臼間をここで過ごした。バハオラの使命宣言は、12日間のレズワン祭によって毎年祝われる。これは、全てのバハイの祭典の中で最も神聖で、最も重要なものとしてショーギ・エフェンディによって描写されている。(注釈 138 注釈 140参照)

108. バヤン¶77

バビ宗教制の母なる書であるバヤンは、バブにより「彼の法律の書」というタイトルがつけられており、それはまた、バブの書物のすべてに適用されるものである。イラン語のバヤンは主要な教義上の記述とバブによって制定された法の重要な貯蔵庫である。ショーギ・エフェンディは、「神よぎり給う」の中で、イラン語のバヤンは、「未来の世代のための恒久的な指針となるよう意図された法律や法令の法典ではなく、むしろ主に、約束された御方への賛美」と見なすべきであると、述べている。アブドル・バハは、「ケタベ・アグダスにおいて確認され、言及されている法律を除いて、バヤンはケタベ・アグダスにより取って代わられた」と、書いている。

109. .本の破損¶77

バハオラはイシュラカトの書簡で、バブが、バヤンで規定した法律についてはバハオラの承認を条件とするとしたことに言及して、ケタベ・アグダスで別の言葉で現することにより、バブの法律のいくつかを有効にし、いくつかを廃棄したと述べている。本の破損についてバヤンでは、神の大業と宗教の真実性を立証するために書かれたものを除いて、全ての本を破損するよう信者らに命じているが、バハオラは、バヤンのこの特定の法律を廃している。バヤンの法律の特質と厳しさについて、ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、次のように述べている。

バブが啓示した厳しい法律や法令は、彼自身の宗教性の性質と目的と特徴に照らし合わせて解釈すると適切に理解されるであろう。これらの言明が述べているように、バビ宗教制は、本質的には、宗教的、そしてまことに社会的革命であり、ゆえに、その継続期間は短かった。しかし、悲劇的な出来事や劇的な改革に満ちていた。バブとその信者らが施行したこれらの劇的な方策は、シーア派の正当制の基盤を脅かすものとしてみられた。こうして、バハオラの到来のための道を敷いた新しい宗教制の独自性を主張し、また、バハオラの啓示の到来の基盤を作るために、バプは、たとえそのほとんどは施行されなかったとはいえ、非常に厳しい法律を啓示せねばならなった。しかし、彼がそれらを啓示したという事実は、彼の宗教制の独自性を証拠立て、かように広範囲にわたる騒動を起こし、バブの最終的な殉死をもたらしたほどの聖職者層の反対を引き起こすに十分であった。

110. われは、無意味な論争に終始するようなものではなく、汝らの益になる諸科学の本を読むことを許司した。¶77

バハイの書では、知識の習得と、芸術や科学の研究を奨励している。バハイは、教養と学識のある人々に敬意を示すよう奨励されている。また、実りのない口論のみを生み出すような学問を追求することに対して警告を受けている。バハオラはその書簡で、有益で、社会の進歩と発展を促進するような科学や芸術を学習するよう信者らに助言している。また、その追求は、空虚な論争につながるところの、言葉に終始する学問に対して警告を発している。ショーギ・エフェンディはその代理によって書いた手紙で、言葉に終始する学問を形而上学的な、詳細にこだわる空虚な理屈の実りなき堂々巡りに例えている。また、バハオラがそのような学問ということで意味したものは、主として「人間の理性が真実に達するのを援助するのではなく、その理性を煩わせる神学的な論文や注釈 」のことであると、別の手紙で説明している。

111. 神と会話を交わした者 ¶80

これは、ユダヤ教とイスラム教でモーゼについて参照する際の伝統的な称号である。バハオラは、自分の啓示の到来によって「人間の耳は、神と会話を交わした者がシナイの上で聞いたことを聞く特権を与えられた」と述べている。

112. シナイ ¶80
神がモーゼに法律を下した山。
113. 神の精神 ¶80
これは、イスラム教とバハイ教の聖典においてイエスーキリストを指す称号の一つである。
114. カルメル・…シオン¶80

神のぶどう園であるカルメルは聖地にある山で、ここに、バブの廟とバハイ信教の世界行政本部がある。シオンはエルサレムにある丘で、ダビデ王の墓のある場所で、聖なる町としてのエルサレムを象徴する。

115. 深紅の箱舟稲 ¶84

深紅の箱舟はバハオラの大業を意味する。バハオラの信奉者らは、バブにより「ガユムール・アスマ」の中で、深紅の箱舟の一行として賛美されている。

116. おおオーストリアの皇帝よ。汝がアクサの寺院を訪問すべく出発した時、神の光の曙なる御方は、アッカの牢獄に住んでいた。¶85

オーストリアの皇帝で、ハンガリーの王であるフランシス・ヨセフ(フランツ・ヨセフ、1830-1926)は、1869年に聖地へ巡礼をしている。聖地にいる間彼は、当時アッカの囚人であったバハオラについて尋ねる機会を逃した。アクサ・モスクとは、直訳すると、最も遠くにあるモスクという意味で、コーランにおいて言及されている。これは、エルサレムにある「寺院の山」と同一のものと見なされている。

117. おお、ベルリンの王よ!¶86

カイザー・ウイリアム1世(ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ラトヴィク、1797-1888)は、プロシアの7番目の王で、1871年1月、フランス対プロシア戦争でドイツがフランスを下した後、ヴェルサイユでドイッ最初の王として迎えられている。

118. 汝の権力を越えて、汝の地位よりも高い地位にあった者¶86

これは、フランスの皇帝ナポレオン3世(1808-1873)に関する言及で、彼は、多くの歴史家により、当時西洋において最も有力な皇帝として見なされている。バハオラはナポレオンに二通の書簡を出しており、二通目で、ナポレオンの王国が混乱させられ、彼の帝国が彼の手中から逃れていくこと、そして人民が大いなる騒乱を経験するであろう,ことを明確に予言している。それから一年内の1870年に、ナポレオン3世は、カイザー・ウイリアム1世を相手にしたセダンの戦いで大きな敗北を期した。彼はイギリスヘ流刑の身となり、三年後に亡くなった。

119. .おお、コンスタンチノープルの人々よ!¶89

ここでコンスタンチノープルと訳されている言葉は、原典ではアー・ルーム(Ar-Rum)、またはロウム(R㎝e)である。この用語は、中東では一一般的にコンスタンチノープルと東ローマ帝国を指す。当時は、これはビザンチンとビザンチン帝国であり後にこの帝国はオトマン帝国となった。

120. おお、二つの海岸の間に位置する地よ!¶89

これはコンスタンチノープルを指しており、現在はイスタンブールと呼ばれている。黒海とマルマラ海とを結ぶ31キロにわたるボスポラス海峡に面した港町で、トルコ最大の都市である。コンスタンチノープルは、1453年から1922年まで、オトマン帝国の首都であった。バハオラがこの都市に滞在していたとき、残虐なスルタン、アブドル・アジズが王座についていた。オトマン帝国のスルタンは同時にカリフ、つまり、スンニ派イスラム教の指導者でもあった。バハオラはカリフ制度の崩壊を予期していたが、これは実際、1924年に廃止された。

121. おお、ラインの岸辺よ!¶90

アブドル・バハは、第1次世界大戦(1914-1918)前に書いた書簡の中で、ラインの岸辺が血で覆われているのを見たというバハオラの言葉は、フランス対プロシア戦争(1870-1871)に関するものであり、そこには一層の苦しみが待っていると述べている。ショーギ・エフェンデイは、「神よぎり給う」の中で、第1次世界大戦後にドイツに課せられた訂酷で厳しい条約が、半世紀後にベルリンの嘆きを呼び起こすことは、予言されていた、と述べている。

122. おお、「タ」の地よ!¶91

「タ」とは、イランの首都テヘランの最初の文字である。バハオラは、しばしば、最初の文字に言及することである場所を意味された。アブジャドの数え方によれば「タ」の数的価値は九で、これは「バハ」という名前の数的価値と同じである。

123. 汝の内に神の栄光の顕示者を誕生させた。¶92
これは、1817年11月12日、テヘランにおけるバハオラの誕生を指す。
124. おお、「ハ」の地よ!¶94

これは、イランのクラサン州とその隣接地域を指す。この地域には、イシュカバード(アシュカバード)が含まれる。

125. ある者が、100メスガルの金を得たなら、そのうちの19 メスガルは神のものであり、神に捧げられるべきである。¶97

この節により、ホゴゴラ、すなわち神の権利が設立された。これは、信者の所有物の価値の一部を捧げることを指す。これは最初、神の顕示者としてのバハオラに捧げられ、その後は、聖約の中心としてのアブドル・バハに捧げられた。アブドル・バハは、その「遺訓」の中で、ホゴゴラは神の大業の守護者を通して捧げられることを規定している。現在、守護者は存在しないので、ホゴゴラはバハイ信教の長としての万国正義院を通して捧げられている。この基金は、神の大業の促進とその利益のためや、その他様々な博愛的目的のために使われる。ホゴゴラを捧げることは精神的義務であるが、それは、各バハイの良心に任せられている。共同体は、ホゴゴラの法律について信者に思い起こさせることはできるが、いかなる信者にも個人的にその支払いを迫ることはできない。「質疑と応答」の多くの項目がこの法律の解説にあてられている。ホゴゴラの支払いは、個人の所有物の価値の計算に基づく。もし人が、金19ミスガル(質疑応答 8)の価値に等しい所有物を有すれば、その価値の19%のみを一度だけホゴゴラとして支払う(質疑応答 89)という精神的義務なのである。その後は、経費をすべて払った後に、収入の価値が19ミスガル増加する度に、人は、この増加分の19%を支払うことになる。その後も同様に、繰り返し支払っていく(質疑応答 8、質疑応答 9。)。所有物の一部、例えば、住居などは、ホゴゴラの支払い対象から免除される(質疑応答 8、質疑応答 42、質疑応答 95)。また、経済的損失の場合(質疑応答 44、質疑応答 45)、利益をもたらすことのできなかった投資(質疑応答 102)、その人が死亡した場合のホゴゴラの支払い(質疑応答 9、質疑応答 69、質疑応答 80)についての特定な規定も述べられている(後者の件については、注釈 47を参照のこと)。様々な書簡、質疑と応答、その他の書からの多岐にわたる、ホゴゴラの精神的意味その適応の詳細に関する抜粋集は、「ホゴゴラ」と題された編纂書に収められている。

126. ……神から下された法律に関して、わが玉座の前に様々な請願が信者らから送られてきた。したがって、われは、この聖なる書簡を啓示し、それを、主の法律の纏いでまとわせた。人々が主の命令を守るように。¶98

バハオラはある書簡で、「何年もの間、神の法律を願う請願が様々な土地から、最も神聖なる御前へ達した。しかし、定められし時がくるまで、われはペンを保留した」と述べている。テヘランのシア・チャールにおける預言者としての使命の誕生から20年経過して、バハオラは彼の宗教制の法律の宝庫である「ケタベ・アグダス」を啓示した。「アグダス」が啓示されてからも、バハオラはペルシャのバハイにそれを送ることをしばらく保留されていた。この時代の神の根本的法律の啓示が遅延されたこと、また、その後その規定内容が徐々に具現化されたことは神により意図されたもので、これによって各予言者の使命期間中でさえも累進的啓示の原則が適用されるということが分る。

127. 深紅の地点¶100

これは、牢獄都市アッカヘの言及である。バハイの書においては、「深紅の」という言葉はいくつかの寓意的、象徴的意味で用いられている(注釈 n5参照のこと)。

128. サドラトウル・モンタハ¶100

文字通りには「最も遠くにあるロートの木」という意味で、ショーギ・エフェンディは、これを「それ以上先へ越えることのできない『樹』」と訳している。これは、イスラム教では象徴として用いられている。たとえば、ムハムマドの「夜の旅」の話では、神に近づく課程において人間も天使も越えることのできない点を指すのに用いられている。それにより、人類に啓示された聖なる知識の境界線を指すのである。こうして、バハイの書では、神の顕示者自身を指すものとして、しばしば用いられている。(注釈 164も参照)

129. .「母なる書」¶103

「母なる書」という用語は、ある宗教制の中心となる「書」を指すために用いられる。イスラム教のコーランとハーディスでは、この用語は、コーランそのものを指している。バビ教では、バヤンが「母なる書」であり、バハオラの宗教制では「ケタベ・アグダス」がそれである。さらに、守護者は、その代理の手紙で、この概念は「バハオラが啓示した教え全体を指す全般的な用語」としても用いることができる、と述べている。また、これはもっと広い意味で神の「啓示」を収める「宝庫」を意味することもある。

130. 啓示の天から下されたものを解釈する者、その明白なる意味を歪めた者は・・¶105

バハオラは、いくつかの書簡で、寓話的な聖句と法律・法令・崇拝・宗教的義務に関する聖句の違いについて確認している。前者は解釈を受ける可能性があり、後者はその意味において明白であり、信者の従順を要求するものである。注釈 145及 注釈 184において説明されているように、バハオラは、長男のアブドル・バハを自身の後継者及び教えの解釈者として指名している。アブドル・バハは、代って、長孫のショーギ・エフェンディを聖典の解釈者及び大業の守護者として、自身の後継者として指名している。アブドル・バハとショーギ・エフェンディの解釈は、神により導かれているものと見なされ、信者はそれに従う義務がある。権限ある解釈が存在することは、信者個人が「教え」を勉強し、それにより個人的な解釈や理解を得たりすることを妨げるものではない。しかし、バハイの書では、権限ある解釈と、個人が教えの学習により得た理解との間に明白な違いを設けている。「教え」の個人的な理解に基づく個人的解釈は、人間の理性的機能の実りであり、信教をよりよく理解することに十分貢献し得る。しかし、そのような見解には権限がない。個人は、自分の考えを提示するにあたって、啓示された言葉の権限を放棄したり、権限ある解釈を否定したり、それと競ったり、論争に関わったりせぬよう注意を受けている。むしろ、自分の考えは自分自身のそれであることを明白にしつつ、それを知識への貢献として提示すべきである。

131. ペルシャの大衆浴場に近づかぬよう注意せよ。¶106

バハオラは、ペルシャの伝統的な大衆浴場に見られるような浴場の使用を禁止している。このような浴場では多くの人々が同じ水で身体を洗ったり、水を替える周期が不定期であったりした。その結果、水は変色し、汚れ、不衛生となり、極度に悪臭を放っていた。

132. 同じく、ペルシャの家の中庭にある、悪臭のする貯水池を避けよ。¶106

ペルシャのほとんどの家では、洗濯や掃除などの家事のために中庭に水を溜めておく場所があった。このような場所の水はよどみ、何週間も替えられることがなかったため、非常に不快な臭いを放った。

133. 汝らは、自分の父親の妻との結婚を禁じられている。¶107

ここでは、自分の義理の母との結婚が厳しく禁じられている。これは、義理に父との結婚にも当てはめられる。バハオラが男性と女性の間に法律を述べているとき、文脈により不可能でない限り、それは、お互いの方向に当てはまるのである。アブドル・バハとショーギ・エフェンデイは、この本文では義理の母親だけが述べられているが、家族内の他の関係は許されると言う意味ではないと確認している。バハオラは、「自分の親戚との結婚の妥当性に付いて」の法律制定は正義院にまかされると述べている(質疑応答 50)。アブドル・バハは、結婚相手の血縁関係は遠ければ遠いほど良いと述べている。なぜなら、そのような結婚の方が人類の肉体的健全と人類間の友好関係のためになるからである。

134. 男子の主題¶107

ここでの男子という言葉は、この文脈では、アラビア語の原語では男色を暗示する。ショーギ・エフェンデイは、この言及は同性愛をすべて禁止するものと解釈している。性に関する道徳についてバハイの教えは、人類社会全構造の基盤として結婚と家庭に中心をおく。このように、バハイの法律は性行為を結婚している男女の間にのみ許すものとする。ショーギ・エフェンデイの代理による手紙では以下のように述べられている。同性の二人の間の愛がどれだけ献身的ですばらしいものであっても、それを性行為において表現することは間違っています。それが理想なのだということは言い訳にはなりません。あらゆる種類の不道徳行為は、バハオラにより禁じられています。そしてバハオラは、同性愛の関係もそうだと見なしておられますし、それは自然に反することなのです。このような形で苦しめられることは、良心的魂にとって大きな負担です。しかし、医者の助言や援助を通して、また祈りを通して、魂はこの障害を克服できるのです。

姦淫や男色に対する罰則は、違反行為の程度に応じて万国正義院が決定すると、バハオラは規定している(質疑応答 49)。

135. いかなる者も、公の眼の前で、道や市場を歩きながら聖句を眩く事を禁ず。¶108

これは、過去の宗教制のある聖職者や宗教的指導者らの慣習に関する言及である。彼らは偽善と欲情のために、また、信奉者らの賛美を勝ち得るために、祈りの言葉を公の場でこれ見よがしに唱えていた。自分達の敬度な態度を示したいためである。バハオラはそのような行為を禁じ、神に対する謙虚さと真の献身の重要さを強調された。

136. あらゆる者は、遺書を書くよう義務づけられている。¶109

バハオラの教えによると、個人は、遺言を書く義務があり、自分の財産を自分が望む方法で処分することができる(注釈 38を参照のこと)。バハオラは、遺言を書くにあたって、人は自分の財産を全面的に管理できると確認しておられる。なぜなら、神は、人に、神が与え給うたものを自分の望み通りに扱うこと」を許されたからである(質疑応答 69)。遺言を残さずに死亡した場合の財産の配分法については、「ケタベ・アグダス」において規定されている(注釈 38, 注釈 39, 注釈 40, 注釈 41, 注釈 42, 注釈 43, 注釈 44, 注釈 45, 注釈 46, 注釈 47, 注釈 48参照)。

137. 最大名¶109

注釈 33でも説明されているように、神の「最大名」は、さまざまな形態を持ちうる。またそれらはすべて「バハ」という言葉に基づいている。東洋のバハイたちはこのケタペ・アグダスの規定を適用し、「おお、栄光に満ちたものの中の最も栄光ある御方よ」、「栄光に満ち給う神の御名において」、「彼こそは栄光に満ち給う方なり」などといった表現を遺言の初頭に記している。

138. 全てのフィーストは、二つの最も偉大なるフィーストと、一対の日に来るもう二つの祭典において、最高状態に達した。¶110

この言葉によりバハイの四大祭典が確立される。バハオラにより二つの最大の祭典として定められているものの一つはレズワンの祭典であり、1863年の四月から五月にかけてバグダッドのレズワンの園でバハオラがその予言者の使命を宣言したことを記念するものである。それは、祭典の中の王として言及されている。二番目は、1844年、シラーズで起こったバブの宣言である。レズワンの祭典の第一、第九、第十二日目は聖なる日である(質疑応答 1)。一他の二つの祭典」はバハオラとバブの誕生日である。イスラム教の陰暦によるとこの二つの日は続いており、バハオラの誕生日は回教暦1233年、ムハラムの月の二日目(1817年11月12日)で、バブの護生日は回教暦1235年、同じ月の一日目である(1819年10月20日)である。このようにこの二つの日は、「対をなす護生日」として量る(質疑応答 2)。彼は、もしそれらの日が断食の月の間に起こるならば断食の命令はそれらに日には適応しないと述べている(質疑応答 36)。バハイ暦は、太陽暦(注釈 26、注釈 147を参照)であるため、対をなす聖なる誕生日を太陽暦、陰暦のどちらに基づいて祝うべきかは万国正義院が決定することになる。

139. .バハの月の第一日¶111

バハイ暦では、一年の最初の月と毎月最初の日はバハという名前を与えられている。したがって、バハの月のバハの日は、バハイの元日、ノー・ルーズである。これは、バプにより祭典として定められ、バハオラにより確認されている(注釈 26、147参照)。ケタベ・アグダスに定められている七つの聖なる日に加えて、バブの殉教は、バハオラの存命中に記念されていた。それを前提として、アブドル・バハは、バハオラの昇天も聖なる日として加えられたため、それらは九となった。記念日として催しはするが仕事を休むことはしない二つの日は「聖約の日」と、アブドル・バハの昇天の日である。「バハイ世界」の第13巻のバハイ暦に関する章を参照のこと。

140. まことに、この最大祝祭日はもろもろの祝祭日の王である。¶112。
これは、レズワン祭典に関するものである(注釈 107、注釈 138)。

141. 神は以前、各信者に自分の所有物の中から貴重な贈り物をわが玉座の面前に捧げる義務を課された。しかし今、われは・・…この義務を廃止した。¶114

この文により、その種類において類のない物は、神が現わし給う者が現れるときには、彼に捧げるべきであるというバヤンの規定は廃止された。バブは、神の顕示者は、比較を超越しているので、その種類において類なき物は何であれ、正当に顕示者がそうでないと定めない限り、顕示者のために取っておかれるべきであると定めた。

142. 夜明け¶115

バハイの礼拝堂であるマシュレゴル・アズカルで夜明けの祈りに参加することについて、バハオラは、神の書で規定されている実際の時間は夜明けであるが、夜明けの最初から夜明けと日の出の間、あるいは日の出二時間後までよい(質疑応答 15)、と説明されている。

143. これらの書簡は、夜明けをもたらし、天と地の間に声を上げた者の印章で飾られている。¶117

バハオラは、自身の文書の、神の言葉としての絶対的な無欠性を繰り返し断言している。「バハイ世界」の第五巻のp4には、バハオラのいくつかの封印の写真が載せてある。

144. 理性を授けられている人間が、その理性を奪ってしまうものを取り込むことは許可されない。¶119

バハイの文書には、ワインや他のアルコール飲料の使用を禁止し、そのような飲料の有害な影響について述べる言及が多くある。ある書簡で、バハオラはこう述べている:

神の「ワイン」を汝らのワインと交換せぬよう、注意せよ。なぜならそれは、汝らの知性を硬直させ、汝らの顔を、栄光に満ちたもう方、比類なき方、近づくことのできない方なる神の「顔」からそれさせるからである。それに近づくなかれ。それは、崇高なる方、全能者なる神の命により汝らに禁ぜられているからである。アブドル・バハは、アグダスでは、「軽いものも強いものもアルコールは」禁ぜられている、と述べ、禁止の理由は、「アルコールは、知性を迷わせ、肉体を弱めるからである」と述べている。ショーギ・エフェンデイは、代理による手紙の中で、この禁止は、ワインだけでなく、「知性を混乱させるすべてのもの」を摂取することを含む、と述べている。また、彼は、アルコールの使用は、「ある特殊な病気の治療のために処方を必要とする、有能で良心的な医者の助言において」施される医療の時のみ、許される、と述べている。

145. 神が意図したもうた者、この古来の根茎より分岐した者になんじらの面を向けよ。¶121

バハオラは、ここで、アブドゥル・バハに、自身の後継者として言及し、彼に向かうように、信者らに呼びかけている。バハオラは、自身の遺訓である「聖約の書」において、この節の意図について明かしている。彼は、こう述べている:「この聖なる節の対象は、最も強大なる枝に他ならない。」最も強大なる枝」とは、バハオラがアブドゥル・バハに付与した称号の一つである。(注釈 66、184を参照のこと)。

146. バヤンの書は、われに質問することを禁じている。¶126

バブは、神が顕現したもう者(バハオラ)に質疑をかけることを、それが文書において出され、その者の深遠なる地位にふさわしいものでない限り、信奉者らにそうすることを禁じた。Selectionsfro the Writings of the Bab(「バブの書からの抜粋」を参照)。バハオラは、バブのこの禁止令を除外している。彼は、信者らに、必要とする質疑をかけることを招待しているが、「以前の人々」を没頭させた「たわいない質疑」を出すことから控えるように忠告している。

147. 神の書で定められた1年間の月の数は、19である。¶127

バハイの年は、バブの暦に応じて、ひと月19日で19ヵ月およびいくつかの閏日(通常は四日で、閏年には五日)が加えられて成立する。閏日は、18ヵ月目と19ヵ月目の間来る。バブは、月々を神の属性に応じて名付けた。バハイの新年、ナルーズは、天文学的に定められており、春分(注釈 26参照)と一致する。一週間の日の名前や月の名前など、詳細は、TheBaha’i Worldの第13巻のバハイ暦に関するセクションを参照されたい。

148. 最初の月は、全創造物をおおい包むこの御名で飾られた。¶127
ペルシャ語のバヤンで、バブは、一年最初の月に「バハ」という名前を与えている(注釈 139を参照)。
149. .死者を・…棺に入れて埋葬するよう、主は定めたもうた。¶128

バブは、「バヤン」で、故人は、水晶または磨かれた石でできた棺に置かれるべきであると定めた。ショーギ・エフェンデイは、代理によりかかれた手紙で、この規定の意義は、「不滅なる人間の魂により一度崇高にされた」身体に敬意を表するためであると説明されている。端的に言うと、故人の埋葬に関するバハイの法律は、遺体を死亡の地点から一時間以上動かすことを禁止するものであり、遺体は、絹または綿でできた布に包み、その指にはある言葉を刻んだ指輪をはめる、ということである。その言葉は、「私は神から来たものであり、恵み深き方、憐れみ深き方という神の御名にしっかりと捕まって神以外のすべてから離脱して神に戻るのである」である。また、棺は、水晶、石、堅い上等の木でできたものであるべきとする。「故人のため」の特別な「祈り」は(注釈 10参照)は、埋葬の前に唱えられるべきである。アブドゥル・バハ及び守護者により証言されているように、この法律は、故人の火葬を除外する。正式な祈りと指輪は、成熟の歳、つまり15歳に達した者に意図されている(質疑応答 7。)。棺を作る材料については、法律の精神は、棺が、できる限り耐久性のある物であるべき、ということである。故に、万国正義院は、アグダスに規定されている材料の他に、最も堅い木やコンクリートを棺に使うことに問題はないと説明しているのである。現時点では、これについては、自分なりに選択することができる。

150. 「バヤンの点」¶129
「バヤンの点」は、バブが自身を指して使った称号の一つである。
151. 死者を五枚の絹または木綿の布で包むよう・…¶130

「バヤン」で、バブは、故人の遺体は、絹または綿でできた五枚の布に包むべきである、と述べている。バハオラは、この規定を確認し、「財源が限られている人々に関しては、どちらかの布一枚で十分である」という規定を加えている。法律の中で言及されている「五枚の布」とは、「五回巻いて十分な長さの布」なのか、「これまで習慣として使ってきた五枚の布」なのか、と聞かれて、バハオラは、意図は、「五枚の布を使うこと」と答えている(質疑応答 56)。遺体が包まれるべき方法は、バハイ文書には、「五枚の布」が使われるにせよ、「一枚の布」にせよ、遺体の包み方がどうであるべきかという定義はない。現時点では、バハイはこれについて自分の判断を用いることができる。

152. 故人の遺体を、町から一時間以上の距離を越えて運ぶことは禁じられている。¶130

この命令の意図は、遺体を埋葬の場所に持っていく交通手段が何であれ、その移動時問が1時間を越えない、ということである。バハオラは、埋葬が早くなされれば、なされるほど、「より適切で、よいことである」と確認している(質疑応答 16)。死亡の場所とは、その人が死亡した都市や町を含むので、1時間の移動時間は、その町の境界線から埋葬の場所の間で計算される。バハオラの法律の精神は、亡くなった人が、死亡の場所の近くに埋葬される、ということである。

153. 神は、バヤンで課せられた旅の制限を除きたもうた。¶131

バブは、「約束された人物」の到来まで有効である旅に関する制限を定めた。「約束された人物」が到来したら、信者らは、歩いてでも彼の面前に達するよう、指示されていた。なぜなら、彼の面前に達することが、彼らの、生存そのものの実りであったからである。

154. 対を成す聖なる場所の二つの家と…・主の玉座が確立された他の場所を高め、賞賛せよ。¶133

バハオラは、「二つの家」をバグダッドの家一一それは「最も偉大なる家」として彼により定められている一一とシラーズのバブの家であると見なしている。両方とも、バハオラにより、巡礼の場所として定められている。(質疑応答 29、32、54参照)。ショーギ・エフェンデイは、「汝の主の玉座が確立されている...他の場所」は、神の顕示者自身が住んでいた場所である、と説明している。バハオラは、「これらの家が位置する地域の人々は、彼が住んでいたそれぞれの家か」または「どちらか」を「保存することを選んでもよい」と述べている(質疑応答 32)。バハイの機構は、双子の顕示者と関連づけられているいくつかの歴史的な場所を確認し、書類に記録し、できるときにはその場所を入手し、保存してきた。

155. 聖なる書に記録されたことによって、この生ける書である者に耳を傾けることを妨げられぬよう注意せよ。¶134

「書」とは、神の顕示者の啓示された「言葉」である。「生ける書」とは、顕示者自身を指す。これらの言葉は、ペルシャ語のバヤンにおける「生ける書」に関するバブの言明を暗示する。バハオラ自身、ある書簡で「神の書は、この若者の形において下された」と述べている。このアグダスの節において。また、アグダスの第168段落において、バハオラは、ご自身について「生ける書」として言及している。言葉を含む。彼は、「他のあらゆる信教の信奉者らに」、「自分らの聖なる書において」「生ける書」の発言を「否定する」「理由」を見っけようとすることに対して忠告している。彼は、「書」に記されていることにより、彼の「地位」を認めることやこの啓示に収められていることにしがみつくことから妨げられないように勧告している。

156. わが先駆者なる者のペンより、この啓示を賞賛して流れ出た次の言葉・・¶135
この節においてバハオラが引用している「次の言葉」とは、アラビア語の「バヤン」からの引用である。

157. 「ケブレとは、まことに神が現したまうであろう御方のことである。彼が休止するまでは、ケブレは彼の動きと共に動くのである。」¶137

この節の説明については、注釈 7と8を参照のこと。

158. バヤンを信じる者以外との結婚は法に反することである。結婚する二人のうち、一方のみがこの大業を受け入れるならば…その所有物は相手にとって不法なものとなる。¶139

バハオラがここで引用している「バヤン」の節は、「神が顕現したもう者」の到来に対して、信者らの注意を引き出している。バビ教徒以外との結婚を禁止し、信教を受け入れた夫または妻の財産はバビ教徒でない配偶者には合法的に相続されないという規定は、バブにより明白に停止されていた。それから、施行される前に、バハオラにより廃止された。バハオラは、この法律を引用しながら、バブは、バハオラの大業がバブのそれよりも早く卓越した地位に上る可能性について明らかに予期していたことを指摘したのである。ショーギ・エフェンデイは、「神よぎり給う」の中で、「バヤン」は、「将来の世代を恒久的に導くように意図された法律と法令というよりはむしろ、主に、約束された者の賛美として見なされるべきである」と述べている。さらに、「それが課す規則や規定は厳格で、原則は革命的で、それにより、長い間存在してきた硬直状態から、聖職らと人民の目を覚まさせるよう意図されている。また、古くなり腐敗した制度に突然で致命的な打撃を与えるよう意図されている。それは、その劇的な規定内容により、予期されていた日の到来、呼出人が真剣なる仕事に呼び出す目の到来一一彼が、神の使途が祖霊前のやり方お破壊したように、彼がそれ以前のものをすべて破壊するとき一一を宣言したのである」。(注釈 109参照)

159. .「バヤンの点」¶140
これは、バブの称号の一つである。
160. まことに・…われの他に神はなし。¶143

バハイ文書には、神の顕示者及び顕示者と神との関係、について説明する節が多数ある。バハオラは、神の地位に関する独特で超越的な性質について説明している:「唯一で真なる神とその創造物とを結び付ける直接のつながりがない故に」、神は「あらゆる時代と宗教制において天と地の王国において純潔で汚れ無き魂が顕現されるようお定めになった」。この神秘的で天なる存在である神の顕示者は「物質界」に属する人間的性質と「神の実質そのものから生まれた」精神的性質とを持ち合わせている。顕示者は、また、二重地位を授けられている。一つは、顕示者の最も内なる本質に関係しており、自分の声が神のそれである者を示すものである...第二は、人間的な地位で、「私はあなたと同じような人間にすぎない」、「言挙げよ、わが主に賛美あれ!われは人間、使徒以上のものであろうか?」という節に代表される。

バハオラは、また、精神的領域においては、すべての顕示者の間には、「本質的な一体性」がある、と述べている。彼らは皆、「神の美」を示し、神の名称と属性を顕示し、神の啓示を発言するのである。これについて、彼はこう述べている:

すべてを包み込む神の顕示者らの誰かが「われは神である」と宣言したとしても、彼はまことに、真実を語るものであり、何等の疑いもない。なぜなら、顕示者の啓示と属性と名称の啓示により、神の啓示と名称と属性が世界において明示されてきたことは繰り返し実証されているからである…・

顕示者は神の名称と属性を明示し、人類が神とその啓示を知る手段である一方、ショーギ・エフェンデイは、こう述べている一一顕示者らは「あの目に見えざる本質、神性自体の本質」とは同一視されてはならない。バハオラとの関係に関して「人間の聖堂[身体]が、それほど圧倒的な啓示の乗り物であったことは、神の「本質」と同一視されてはならない、と守護者は述べている。バハオラの地位とその啓示の偉大さについて、ショーギ・エフェンデイは「神の日」に関する予言的言明一一過去の宗教制の聖典に見いだされるが一一は、バハオラの到来により実現した、と述べている:

イスラエルにとって、彼は「永久なる父」の化身であり「数千の聖者ともにおりてきた万軍の主」である。キリスト教世界にとっては「父の栄光におにて」再臨したキリストであり、シーア派イスラム教に取っては、イマーム・フサンの再来であり、スンナ派イスラム教では、「神の霊[イエス・キリスト]」の降臨である。ゾロアスター教徒に取っては、約束されしシャー・バラームであり、ヒンズー教徒に取っては、クリシュナの生まれ変わりで、仏教とにとっては、五番目の仏陀である。

バハオラは「神性」一一他の顕示者とも共有しているが一一についてこう述べている:

…[それは]自分において滅び、神において生きる地位である。神の性とは、われが述べるときには常に、われの完全にして絶対的なる自己抹消を意味する。これは、われが自分の幸福や災い、生命や復活に関して統制のきかかない地位なのである。

そして、神と自分の関係については、こう証言している:

おお神よ、私が、私をあなたと結び付ける関係について考えるとき、私は「まことにわれは神である」と全創造物に対して宣言するよう動かされます。そして、私自身について考えるとき、なんと、私は、土くれよりも粗野なものであると思うのです!

161. ザカートの支払い¶146

ザカートは、コーランの中でイスラム教徒に課せられた規則的慈善行為を指すものである。やがて、この概念は慈善税金に形に発展していった。これはある部門の収入が定められた限度を超えると、一定の割当分を、貧者の救援や様々な慈善的目的、および神の信教を援助するために与えなければならない義務を課したものであった。免除の限度は、生産品の種類によって異なった。同様に課税され得る部分の支払い割合も異なった。

バハオラは、ザカートに関するバハイの法律は「コーランに啓示されたこと」(質疑応答 107)に従うものであると述べている。免除の限度、関連ある収入の部門、支払いの頻度、ザカートのさまざまな部門に対する割合の尺度はコーランに述べられていないため、今後それらは万国正義院によって説明されなければならないであろう。ショーギ??・エフェンディは、それらが制定されるまで、信者は自分の資力と可能性を考えてバハイ献金に定期的に献金するべきであると指摘した。

162. 物乞いをすることは不法である。また物乞いに物を与えることも禁じられている。¶147

ある書簡の中で、アブドル・バハはこの句の意味を説明している。かれはこう述べている。「乞食生活は禁じられている。また物乞いを職業としている人たちに施すこともまた禁じられている。」同じ書簡の中で、かれはさらに次のように指摘している。「目標は乞食生活を完全に根絶することである。しかしながら、ある人が生計を立てることができないか、貧窮に見舞われるか、または無能になった場合は、富裕者または代理人がその人の生活費として毎月一定の割当を支給しなければならない…・代理人というのは、人々の代表者を意味し、つまり、正義院のメンバーを指す。」

物乞いに施してはならないという禁令は、個人や精神行政会が貧困者や援助を必要としている人たちに財政的な援助をすること、またはその人たちが生計を立てられるように技術を身につける機会を与えることを排除するものではない。(注釈 56を参照)

163. 以前、他の人の悲しみの原因となった者に・…罰金が・…定められた。¶148

バハオラは隣人の悲しみの原因となったことに対する償いとしての罰金の支払いに関するペルシャ語のバヤン書の法令を廃止した。

164. 聖なるロートの木¶148

「聖なるロートの木」は、サドラトゥル・モンタハを指すもので、「その木の向こうには通り道がない」ことである。(注釈 128を参照)ここでは、バハオラを表すために象徴的に用いられている。

165. 神の句を毎朝、毎夕唱えよ。¶149

「神の句」を唱える根本的な「必要条件」は、「神の言葉を読む」ための信者の「熱意と愛」であるとバハオラは述べている。(質疑応答 68)

「神の句」の定義に関して、バハオラは「聖なる言葉の天より下されたすべて」を指すと述べている。ショーギ・エフェンディは、東洋の信者の一人に書いた手紙の中で、「神の句」はアブドル・バハの著作を含まないことを明確にした。同様に、かれは自分の著作にも当てはまらないことを指摘した。

166. なんじらは、19年ごとに家の家具を新しいものと取り替えるように命じられた。¶151

バハオラは、19年ごとの家の家具の更新に関するアラビヤ語のバヤン書の命令を確認している。ただし、そうすることが可能であればである。アブドル・バハはこの法令を洗練と清潔に関連させている。この法律の目的は、古くなり、光彩を失って嫌悪感を起こすような家具を変えることにある、とかれは説明している。これには珍しい物、または秘蔵品、骨董品または宝石類は当てはまらない。

167. 足を洗うこと¶152

ケタベ・アグダスで、信者は定期的に入浴し、清潔な衣服を着、概して清潔と洗練の真髄であるように勧告されている。ケタベ・アグダスの概要と体系化IV.D.3y.i-viiでこれに関連する規定が要約されている。足を洗うことに関しては、バハオラは温水を用いることが好ましいが、冷水で洗うこともまた許されると述べている。(質疑応答 97)

168. 説教壇を使うことは禁じられた。皆に向かって主の句を唱えたいと望む者には、全人類の主なる神について語れるよう台座に座らせよ。¶154

これらの規定は、ペルシャ語のバヤン書にすでに書かれていることである。バブは説教と聖なる句の朗読に説教壇を用いることを禁じた。その代わりに、皆が神の言葉をはっきりと聞くことができるように、講話者が座れる椅子を壇上に置くべきであると明記した。

この法に関して、アブドル・バハとショーギ・エフェンディは次のように明確に注釈 した。マシュレゴウル・アズカル(ここでは説教は禁じられており、聖典の言葉の朗読のみが許されている)では朗読者は立っことも座ることもできる。皆によく聞こえることが必要であれば、低い移動可能な壇を用いることもできるが、説教壇は許されていない。マシュレゴウル・アズカル以外の場所での集会の場合、朗読者または講話者は座ることも立っこともでき、壇を用いることも許される。アブドル・バハはある書簡の、どの場所においても説教壇の使用は禁止されていることを繰り返し述べている箇所で、バハイが集まりで話をするときは、真心から謙虚な気持ちと自己を否認する態度でなければならないことを強調した。

169. .賭博¶155

この禁令に含まれている諸活動はバハオラの著作には明確には記されていない。アブドル・バハとショーギ・エフェンディの双方が指摘しているように、この禁令を詳細に明記することは万国正義院に任されている。富くじ、競馬やフットポールなどへの賭け、ビンゴ、などは賭博の禁令に含まれているかどうかという質問については、万国正義院は、このことは今後詳細に考慮される事柄であるとしている。それまでは、行政会と個人はこのことを問題化せず、信者個人の良心に任せるように勧告している。

正義院は、富くじ、ラッフル、運まかせの勝負ごとによって信教の基金が集められることは適切でないと決定した。

170. 阿片・…人間の身体を不活発にしたり無気力にする物質の使用¶155

この阿片使用の禁令はケタベ・アグダスの最後の文節で繰り返されている。これに関して、ショーギ・エフェンディは「純潔で聖らかな生活」の必要条件の一つは「阿片、その他の習慣性の薬剤を・…完全に放棄すること」であると述べている。ヘロイン、ハシーシ、その他マリファナのようにカンナビスから引き出されたもの、エルエスディー、パオタ、それに類する物質はこの禁令に含まれているものと見なされる。

アブドル・バハはこのように書いた。

阿片に関して述べると、それは不潔で呪うべきものである。神はその使用者に与える罰からわれわれを保護されるのである。最も聖なる書の明確な句によれば、阿片の使用は禁じられており、全く非難されるべきことである。理性は阿片を吸うことが一種の狂気であることを明確にし、経験はその使用者は人間界から完全に断たれることを証明している。これほど忌まわしい悪事、人間の土台そのものを滅ぼす悪事、そしてその使用者を永遠に追放する原因となる悪事から神がすべての人々を保護されんことを願う。なぜなら、阿片によって魂が捕えられるため、その使用者の良心は殺され、知性は抹殺され、知覚力はむしばまれるからである。それは生者を死者にしてしまうのである。それは自然熱を冷やす。阿片のもたらす害より大きな害は考えられない。阿片という名さえ口にしなかった人は幸運である。それではその使用者がどれほど悲惨であるか考えてみよ。

おお神から愛されるなんじらよ!この全能なる神の周期において、暴力と強圧、強要と抑圧はすべて非難されるものである。しかしながら、人類がこの最も強大な呪いから救われるためには、阿片の使用をいかなる手段を用いても阻止しなければならない。そうしなければ、災いと苦悩がこの主への義務を果たさなかった者へ襲ってくるであろう。

アブドル・バハはある書簡の中で、阿片に関してこう述べた。「使用者、買う者、売る者はすべて神の恩寵と恩恵を奪われたものである。」

他の書簡の中で、アブドル・バハはこう書いた。

ハシーシに関して、あなたはペルシャ人の中にはその常習者となっていることを指摘した。悲しいことである。ハシーシは酔いをもたらす物質の中で最悪のものであり、その使用禁止は明確にされている。それを使用すると思考は支離滅裂となり、魂は全く麻痺してしまう。誰がどうして地獄の木の実を求め、それを摂り、怪物の性質を例証するようなことができようか。誰がどうしてこの禁じられた麻薬を使用し、すべてに慈悲深き方の祝福を奪われることができようか。

アルコールは知力を衰弱させ、人をして愚かな行為を犯させる。しかし、この阿片、この地獄の木の汚らわしい実、そしてこの邪悪なハシーシは知力を消滅させ、精神を凍らせ、魂を無感覚にし、身体を衰弱させ、人を挫折させ、滅ぼすのである。

心に留めておくべきことは、上述のある種の麻薬の使用禁止は、治療の一部として免許を持つ医師によって処方される場合はあてはまらないことである。

171. 「主権の印における大いなる逆転の神秘」¶157

シェイキ派の創設者であり、rバブの信教の出現を告知した二人の先覚者」の最初の人であるシェイキ・・アハマディ・アソイ(1753-1831)は、約束の人の出現により、万物は逆転し、最後が最初になり、最初が最後になるであろうと予言した。バハオラは、ある書簡の中で、「主権の印における大いなる逆転の神秘」の「象徴と隠嚥」に言及している。かれは「この逆転により、神は高き者を低め、低き者を高められた」と述べ、またこのように回想している。「イエスの時代にかれを否定したのは学識で名高い者、学者と宗教学者であった。一方、身分の低い漁夫が御国に入るために急いだ。」(注釈 172を参照)シェイキ・アハマディ・アソイに関する補足情報は「夜明けを告げる人びと」の140章参照。

172. この「高潔なるアレフ」により起こされた「六」を認めた者は幸いである。¶157

シェイキ・アハマディ・アソイは自著の本の中で、アラビヤ語の文字rヴォブ」芝強く強調した。ナビールは、この文字は「神の啓示の新しい周期の出現であるバブ石象徴し、以後、ケタベ・アグダスの中の『大いなる逆転の神秘』および『主権の印』といった文節でバハオラにより言及されてきた」と述べている。「ヴォブ」の文字の名は三つの文字、ヴォブ、アレフ、ヴォブから成り立つ。アラジャッドの計算によると、これらの文字の各々の数値は、それぞれ6、1、6である。ショーギ・エフェンディは、東洋のある信者に宛てた代理による手紙の中で、このフグダスの句に解釈を与えている。かれは「高潔なるアレフ」はバブの出現を指したものであると述べている。アレフの前にくる6の数値をもつ最初の文字は、バブ以前の初期の律法時代と顕示者の象徴であり、一方、同じく6の数値をもつ第3の文字はフレフの後に顕示されたバハオラの崇高なる啓示を表す。

173. 必要でない限り、武器を身につけることは禁じられてきた。¶159

バハオラはバヤン書の中の、必要でない限り武器を身につけることを不法とする桂令を確認している。武器を身につけることが、個人にとって「不可欠」である状況に関してアブドル・バハは危険な環境においては自己防衛のために武器をもって良いと信者に許可を与えている。ショーギ・エフェンディもまた、代理による手紙の中で、緊急時において近くに要請できる合法な警察がない場合、バハイが自己の生命を防衛することは正しいと述べている。その他武器を必要とし、合法的に使用できる状況か数多くある。たとえば、衣食のために狩猟をする国々での使用、また弓道、射撃術、フェンシングなどのスポーツでの使用がそうである。

社会のレベルでは、バハオラ(落穂集、CX皿参照)が宣言し、ショーギ・エフェンディ(バハオラの世界秩序の中の守護者の手紙参照)が詳細に述べた集団保障の原則は武器の使用の排除を前提条件とするものではない。しかし、「軍事力は正義のしもべとされるシステム」を定め、その軍事力は「連邦全体の有機的和合を擁護する」国際平和維持軍を供給する。ビシャラットの書簡の中で、バハオラは「世界中の戦争の武器は再建の道具に変えられ、争いと戦いは人類から除かれる」望みを表している

他の書簡で、バハオラはすべての宗教の信者たちと親交を結ぶ重要性を強調している。かれはまた「聖戦の法は聖なる書から消された」と述べている。

174. 絹で装うことは許された。¶159

イスラム教の慣例では、絹を身につけることは、聖戦の時以外は一般的に禁じられていた。コーランの句に基づいたものではないこの禁令は、バブによって廃止された

175. 主は・…以前適用されていた衣服や髭の刈り方に関する制限を除きたもうた。¶159

衣服に関する多くの規則は、世界の諸宗教の法律および伝統的な慣例に起源する。たとえぱ、シーア派の僧侶は特徴のあるヘッドドレスと衣を採用し、またある時期にはヨーロッパ風の衣服を禁じた。イスラムの習わしにも、予言者の習慣を模倣したいという望みから口ひげの手入れやあごひげの長さに関していくつかの制限がもうけられた。

バハオラは衣服やひげに関する以上の制限を取り除いた。かれはそういった事柄を各人の「思慮分別」に任せ、同時に信者に礼儀の埼を越えないように、また衣服に関わることすべてに中庸を守るように求めた。

176. おおカフとラの地よ!¶164
カフとラはイランの都市および地方の名称であるケルマンの最初の二つの子音である。
177. われは、なんじから密かにこっそりと放散しているものを感知する。¶164

この文節は、ケルマン市に関連のあるミルザ・ヤーヤ(注釈 190参照)に従う者ら、アザリのグループの陰謀に言及するものである。その中には、モラ・ジャファー、その息子シェイキ・アハマディ・ルヒとミルザ・アガ・カニケルマニ(両者共にミルザ・ヤーヤの義理の息子)、およびミルザ・アハマディ・ケルマニがいた。かれらは信教を密かに害しようとしただけでなく政治的な陰謀にも加わった。これは後にナセルディン皇帝の暗殺となった。

178. モハメッド・ハサンという名のシェークを想起せよ。¶166

イスラム教シーア派の指導的代弁者の一人であるシェイキ・モハメッド・ハサンはバブを拒絶㌧た。シーア派の法制に関する多数の書の著者であるかれは、1850年頃死亡したと伝えられている。

ナビールは「夜明けを告げる人びと」の中で、生ける文字の一人であるモラ・アリイバスナミとシェイヰ・・モハメッド・ハサンのナジャフで起こった出会いを叙述している。その出会いの間に、モラ・アリはバブが現れたことを宣言し、その啓示の力強さを称揚した。このシェイキの扇動により、モラ・アリは直ちに異端であると宣告され、その集会から追放された。かれは裁判にかけられ、イスタンブールκ移され、重労働の刑を言い渡された。

179. .小麦と大麦のふるい手¶166

これは、イスファハンで最初にバブの信教を受け入れたモラ・モハメッド・ジャファー・ガンダムパッククンを指すものである。かれはペルシャ語のバヤン書に述べられ「使徒の衣を着た」人として賞賛されている。「夜明けを告げる人びと」の中で、ナビールは「小麦のふるい手」がメッセージを無条件に受け入れ、その新しい啓示をいかに熱烈に唱道したかを述べている。かれはシェイキ・タバルシの砦の防御者の一団に加わり、包囲攻撃された時に亡くなった。

180. 「予言者」という言葉によって、この最も偉大なる宣言から引き止められないように注意せよ。¶167

バハオラは「洞察力」をそなえた人びとに、自分たちの聖典の解釈によって神の顕示者を認めることを妨げられないように警告している。各々の宗教の信者は、自分の宗教の創立者への献身からその啓示が最後の神の言葉であると理解し、その後に予言者が出現する可能性を否認しがちであった。ユダヤ教、キリスト教、およびイスラム教の場合もそうであった。バハオラは過去の宗教制においても、自らの宗教制においても、この最終性の概念は真実でないと述べている。イスラムに関して、かれは「確信の書」にこう書いた。「コーランの民は・…『予言者の封印』という言葉を自らの目を蔽うベールとし」、「理解力をくもらせ、多種多様な神の恩寵を失った」。かれは「このテーマが・…全人類の悲痛な試練となってきた」ことを確認し、「これらの言葉に愛着し、自分たちの真の啓示者である方を信じなかった者らの」運命を嘆いている。バブはこの同じテーマに言及し、このように警告している。「なんじらの主である方から名のべ一ルに妨げられて引き離されないように。たとえそれが予言者という名であっても。なぜなら、そういった名は神の言葉から創造されたものであるに過ぎないからである。」

181. 「代理人」という言葉へのいかなる言及によっても、神の代理である方の主権から除外されるな。¶167

ここでは「代理人」と訳されているが、アラビヤ語の原文では「ビラヤット」であり、「守護者」、「保護者」、または「後継者」をはじめとして多くの意味を含む。これは神自身との関連、神の顕示者との関連、または顕示者の任命された後継者との関連において用いられている。

このアグダスの句で、バハオラはこの概念によって新しい神の顕示者、真の「神の代理人」の「主権」に盲目にならないように警告している。

182. カリムを想起せよ。¶170

ハジ・ミルザ・モハメッド・カリム・カニ・ケルマン(1810一約1873)はシェイヰ・・アハマディ・アソイ(注釈 171 注釈 172参照)の任命を受けて後継者となったセイエド・カーゼムの死後、自己任命でシェイキ共同体の指導者となった。かれはシェイキ・アハマディの教えを推進するために献身した。かれが出した意見は、かれの指示者と反対者の間で同様に議論の的となった。

当時の指導的な学者であり多作の著者の一人と見なされていたかれは、その時代に発達していたさまざまな分野の学問に関して数多くの本と書簡を書いた。かれはバブとバハオラに激しく反対し、自分の論説を用いてバブとその教えを攻撃した。バハオラは「確信の書」の中で、かれの著作の論調と内容を非難し、バブヘの否定的な言及が書かれているかれの著作の一つを取り上げて批判している。ショーギ・エフェンディはかれを「異常に野心的で偽善的である」と述べ、また、いかにかれが「皇帝からの特別な要請により、論説の中で、この新しい信教とその教義を悪意をもって攻撃した」かを記述している。

183. おおなんじら、バハの学識者たちよ。¶173

バハオラは信者の中の学識者をほめたたえている。聖約の書の中で、かれは「バハの人びとの中の支配者と学識者に幸いあれ」と書いた。この言葉に言及して、ショーギ・エフェンディはこう書いた。

この聖なる周期において「学識者」とは、一方では神の大業の翼成者であり、また他方では、翼成者の地位は占めないが、布教活動で卓越した地位を獲得した布教者であり普及者である。「支配者」は地方、全国および国際正義院のメンバーを指すものである。これらの人びとの各々の義務は将来定められるであろう。

神の大業の翼成者はバハオラから任命され、さまざまな義務、特に信教の保護と普及を任された人たちである。「忠実なる人びとの追憶」の中で、アブドル・バハは他の卓越した信者たちを大業の翼成者として言及した。そして遺訓の中で、信教の守護者に随意に大業の翼成者を任命する規定を含めた。ショーギ・エフェンディは、最初、すでにこの世を去っている何人かの信者を大業の翼成者の地位に高め、かれの生涯の後半にすべての大陸から合計32人の信者をこの地位に任命した。1957年のショーギ・エフェンディの逝去の年から1963年の万国正義院の選挙の年までの期間、大業の翼成者は、バハオラの萌芽期にある世界連邦(注釈 67参照)の主なる管理者として信教の事業を導いた。1964年11月、万国正義院は大業の翼成者を任命できる法を制定することはできないと決定した。その代わりに、1968年、万国正義院は信教の保護と普及に関連する大業の翼成者の機能を大陸顧問団を創設することにより、また、1973年、聖地に国際布教センターを設立することにより将来に向けて拡大した。

万国正義院は国際布教センターと大陸顧問団のメンバーを任命する。顧問補佐は大陸顧問団によって任命される。これらの人びとはすべて、上述した文章でショーギ・エフェンディが定義した「学識者」の中に含まれる。

184. 聖なる書の中で理解できないことは何であれ、この強大な根茎から分岐したかれに尋ねよ。¶174

バハオラはアブドル・バハに、自らの聖なる書を解釈する権限を与えている。(注釈 145参照)。
185. 超絶的な唯一性の学舎¶175

この句とそれに続く句で、バハオラは、バヤンに約束された者であるという自らの要求をなぜバビたちが拒絶したかの理由の一つに直面している。かれらの拒絶はバブが「神が顕示される方」に書いた書簡に基づくもので、その書簡の裏側にバブはこう書いていた。「神が顕示したまう方の眼差しが最初の学舎のこの文字を照らしたまわんことを願う。」この書簡は「バブの著作の抜粋集」に出版されている。これについてバビたちは、バハオラはバブより二年年上であり、バハオラがこの書簡を「最初の学舎」で受け取ることは不可能であると主張した。

バハオラは、これは存在の次元を超えた精神界で起こっている出来事に言及したものであると説明している。
186. われは・…かれがわれに提示した神の句を受け入れた。¶175

「神が顕示される方」に宛てた書簡の中で、バブはバヤンを自分からバハオラヘの捧げ物であると特徴づけている。(バブの著作の抜粋集を参照)

187. バヤンの人びとよ!¶176
バブに従う人たちを指す。
188. 「存」と「在」という二つの文字が合わされ、結ばれた。¶177

ショーギ・エフェンディは、代理による手紙の中で、「存と在の二つの文字」の意味を説明した。この二つの文字は「存在」という言葉を構成し、それは「その命令により万物を生み出す神の創造力」、および「神の顕示者の威力、その偉大なる精神的な創造力」を意味するものであると述べている。

「存在せよ」という言葉の命令は、アラビヤ語の原文では「クン」であり、「カフ」と「ナン」の二つの文字から成り立っている。ショーギ・エフェンディはこれを上に述べたように訳した。この言葉はコーランの中で、万物を存在に呼び起こす神の命令として用いられた。

189. .この新しい世界秩序¶181

ペルシャ語のバヤン書の中で、バブはこう述べた。「バハオラの秩序に目を据え、主に感謝を捧げる者は幸いである。なぜなら、その方は必ず顕示されるからである。まことに神はバヤン書の中で、それを最終的に定めたもうたからである。」ショーギ・エフェンディはこの「秩序」をバハオラがアグダスで描いた聖なるシステムと同一視している。その中で、バハオラはそれが人類の生活におよぼす革命的な影響を証言し、その働きを支配する法律と原則を明らかにしている。

「新世界秩序」の特徴はバハオラとアブドル・バハの著作、およびショーギ・エフェンディと万国正義院の手紙の中で叙述されている。バハオラの世界秩序の「構造基盤」を成す現在のバハイ行政秩序機構は成熟し、バハイ世界連邦へと発展していくであろう。これに関して、ショーギ・エフェンディはこの行政秩序は「その構成要素、その有機的機構が能率的に、活力をもって機能し始めるにつれて、その要求を主張し、その能力を表示するであろう。それは、時期が熟せば、全人類を包含するように定められている新世界秩序の中核としてのみでなく、パターンそのものとして考えられるものである。」

この新世界秩序の発展に関する補助的情報は、一例として「バハオラの世界秩序」の中に出版されているショーギ・エフェンディの手紙を参照。

190. おお、倒錯の源泉よ!¶184

これは、サビヒ・アザル(永遠の朝)として知られるミルザ・ヤーヤに言及したものである。かれはバハオラの異母弟で、バハオラに対して立ち上がり、その大業に反対した。ミルザ・ヤーヤは差し迫っている約束の人の出現までの間、バブよりバビ共同体の名目上の頭に指名された。セイエド・モハマディ・エスファハニ(注釈 192参照)の扇動によりミルザ・ヤーヤはバブの信頼を裏切り、自らバブの後継者と宣言し、バハオラに対して陰謀を企て、かれを殺害させようとさえした。アドリアノープルで、バハオラが正式に自らの使命をミルザ・ヤーヤに宣言したとき、それに応えてかれは自分が独立した啓示を受けた者であるという要求を長々と出した。やがて、かれの主張はアザリ(注釈 177参照)として知られるようになった少数を除いた全ての人に拒絶された。ショーギ・エフェンディはかれを「バブの聖約の主なる破壊者」(神よぎりたまう、第十章参照)として記述している。

191. なんじが大業に奉仕できるよう、いかにわれが、日夜なんじを養育したかを思い起こせ。¶184

ショーギ・エフェンディは「神よぎりたまう」の中で、ミルザ・ヤーヤよりも13才年上であったバハオラが、かれが年少のときから大人になるまで助言し、見守った事実に言及している。

192. 神はなんじを迷わせた者を捕らえたもうた。¶184

ショーギ・エフェンディが「バハイ啓示の反キリスト」と記述したセイエド・モハマディ・エスファハニを指す。かれは堕落した性格と個人的な大野心をもった男で、ミルザ・ヤーヤをそそのかしてバハオラに反対させ、自らが予言者であると要求させた。(注釈 190参照)。セイエド・モハマディはミルザ・ヤーヤの支持者であったけれども、バハオラと共にアッカに追放された。かれはバハオラに対して扇動を起こし、陰謀を企て続けた。ショーギ・エフェンディは「神よぎりたまう」の中で、かれの死亡したときの状況をこのように書いた。

いま、新たな危険が明らかにバハオラの生命に迫っていた。バハオラ自ら数回にわたって信者たちに、口頭によっても、書き物によっても、迫害者に仕返しをすることを厳しく禁じた。また、自分の師が虐待を受けて苦しんだことに対して復讐を企てていた無責任なアラブ人の改宗者をベイルートに返したりもした。しかしながら、バハオラの従者のうち7人が内密のうち迫害者のうち3人を探し出し、殺害したのであった。その中にセイエド・モハメッドとアガ・ジャンが含まれていた。

すでに圧迫を受けていた共同体をとらえた驚きは叙述できないものであった。バハオラの憤りは計り知れなかった。かれはこの犯行後まもなく書いた書簡の中で、自らの感情をこのように表現している。「われに降り掛かったことを述べれば、天は裂け、山は砕けるであろう。」かれは、他の折にこう書いた。「わが監禁はわれを傷っけはしない。われを傷つけるものは、われに関連あると宣言しながら、わが心とわがペンが煩悶することを犯すわれを愛する者らの行動である。」

193. Note ¶189

バハオラは、万国共通の言語と文字の採用を命じている。彼の文書には、このプロセスにおいて、二つの段階が描かれている。第一段階は、現存する言語、または発明された言語を選び、次に世界中の学校で母国語の補助語として教えることである。世界中の諸政府は、その議会を通して、この重大なる法律の制定をするよう、呼びかけられているのである。第二段階は、遠い将来、結局は、地上すべての人のために、一つの言語と共通の文字が採用されることである。

194. Note ¶189

バハオラの文書において言及されている人類の成熟の最初の印は「聖なる哲学」として描写されている科学の出現で、これは、元素の変換という劇的な方法の発見を含む。これは、未来の膨大なる知識の拡大の輝かしさを示すものである。バハオラが、ケタベ・アグダスの中で指摘していると述べている二つめの「印」について、ショーギ・エフェンディは、こう述べている。「バハオラは、その最も神聖なる書の中で、地上のすべての人びとが使用するために一つの言語を選び、共通の文字を採用することを命ぜられた。これは、彼ご自身がその書の中で確証されているように、実行されたときには、『人類の成熟』印となるような命令なのである。」この人類が大人になり成熟するプロセスにさらに洞察を与えてくれるのは、バハオラの次の言明である。

世界の成熟の印の一つは、誰も王権の重みに耐えることを受け入れることがなくなるということである。王権は、誰も、その重みを一人で耐えることがなくなるであろう。その日こそは、英知が人類の間に顕現される日である。

人類の成熟は、ショーギ・エフェンディにより、全人類の統合、世界共同体の確立、「全人類の知的、道徳的、精神的生活」への前例のない刺激と結びつけられている。


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